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八王子千人同心の歴史

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八王子千人同心のおいたち

 天正10年(1582年)織田信長と徳川家康の連合軍により、武田勝頼を将とする甲州軍は大敗しました。
 徳川家康は、主に武田の残党から強壮な者を選んで、彼自身を守る親衛隊、つまり「旗本」を組織しました。
 さらに家康は、新しく徳川氏の所領となった甲州「国中」から国境に通じる幹線である「九鶴牧川の千人同心像口筋」の道中奉行として、家臣九人を任命しました。彼らは小人頭、長柄頭などと呼ばれていました。

 天正18年(1590年)八王子城が落城すると、徳川幕府は甲府との境にあった八王子を、関東入 国に際して、甲斐・武蔵の国境警備の重要拠点、敵の侵入を阻止する重要な砦と考えました。
 甲斐武田氏の家臣だった小人頭とその配下250人を、八王子城下の治安維持と甲州道の警備のため、落城後間もない八王子城下に配したのでした。
 
 これは、徳川家康が江戸城を築城するにあたり、甲州街道(新宿通り)の突き当たる半蔵門を搦め手門として、もしも城が落ちた場合は半蔵門より甲州街道を一気に走り、八王子から甲府へ落ち延びて再起を図る事を想定していたようです。
 その時に甲州との国境にあり、重要な逃走路となる八王子周辺の多摩地域に、在郷の武士団を配置して平時より警備にあたらせていたわけです。
 一方、八王子城も「山城」としての価値が減ったので廃城とし、現在の八王子市街地に、横山、八日、八幡の三宿を移転しました。その際、同心を500人に増員しました。

 文禄2年(1593年)、家康は同心の増員を図り、千人となし、その千人頭や組頭を集住させて、「千人町」と名づけました。彼らはまた「八王子千本槍之衆」とも称し、甲州路筋に住んで、江戸の西の守りを固める砦とされました

千人同心の位置づけと居住地

 千人同心の基本的な性格は、緊急時の対応にあるようです。大きな役目は、先ほども触れたように八王子城落城後の治安維持、いわば落城により不安定となっている人心を安定させること であったようです。

 しかし、実際には、極めて軍事的に使われたようです。天正19年(1591)には、奥州九戸の乱の平定に駆り出されています。
 慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では、家康の警護を行っています。文禄元年(1592)は、朝鮮の役にも出兵していますし、元和元年(1615)の大阪の陣では、大阪城の本隊と直接戦っているのです。
 また伏見城や江戸城の営繕や、家光の日光参拝の警護といってみればうまい具合に利用されているといった感じさえあります。  

 ところで、そういった千人同心たちの暮らしはどうだったのでしょうか。

 千人同心の住まい拝領屋敷地の組頭の家は、周辺の農家と比べると広くありませんが、式台付きの玄関などは、格式の高さを示しています。
 実際の総数は平同心が800人で、多摩周辺の郷士となった上層農家が多かったのですが、100人いた組頭は八王子市千人町付近に拝領屋敷のある30表一人扶持の士分でした。
 さらにその上に200石から500石取りの千人頭が10人いて、組頭と同じく千人町付近に屋敷がありました。
 基本的には世襲制でしたが、病気や怪我などで公務につけなくなった時は、同心株を他家に譲り渡すということもあり、多摩や相模まで広がっていった背景を持ちます。

 江戸時代は、全国の大名領や徳川氏の天領においても、兵農分離が原則でしたが、千人同心のみは兵農一体で、珍しい制度でありました。
 身分は武士なのですが、通常は高持ちの百姓として、耕作にあたっていました。また、千人同心は苗字を公称することがゆるされておらず、帯刀についても公務中のみと制限されていた、そして同心の家族であっても帯刀はゆるされず、引退した同心経験者であっても同心職を退いたならば帯刀は出来なかったようです。

 このように兵農分離のもとでは、士族身分と農民身分をあわせもつ、きわめてまれな団体的農兵でした。同心は御家人として幕府から米が支給されるのですが、同時に農民として年貢も納めるという極めて特異な形態と言えます。
 日本の屯田のはじまりとさえいわれているのです。

 また、八王子千人同心は、任務のない平時は農作業を行なう傍らで剣術の稽古に励んでいた。彼らの間で流行していたのが天然理心流です。新選組の近藤勇や土方歳三、沖田総司たちが身に付けていた、あの剣術です。天然理心流は、江戸時代を通じて三多摩一帯に広がっていたのです。

日光の東照宮の警備(火の番)

 千人同心は当初の甲州境の警備だけでなく、のちには日光の東照宮の警備(火の番)や、江戸城や大阪城の修理、蝦夷地の開拓などの活動も行いました。  日光には、徳川家康をまつる東照宮、家光をまつる大猷院などの徳川幕府にとっては、まさに聖域の祖廟がある。

 家康が亡くなり日光東照宮が建立され、更に慶安4年(1651)三代将軍家光が亡くなると、日光に遺体埋葬の警備を命じられ、また翌年から「日光火の番」を下命されると、以後、幕末まで公務として、日光奉行配下で警備、防火、消火を担当した。

 このようにして千人頭2名ほか1組50人の計100人が、10組にわかれ50日単位で交代勤務したといわれる。交替で日光東照宮の「火の番屋敷」に詰め、山内の見回り、出火の際の消火活動にあたるのでした。

 真冬の日光は、本当に冷え込む。千人同心たちは、そのなかを火の見櫓に立ち、夜を徹して見回りを行うわけで決して楽な仕事ではなかった。
 その日光往還は、八王子から拝島、箱根ヶ崎を経由する3泊4日の行程で、かなりつらい勤務だった。半士半農の千人同心にとって田畑から離れることや、八王子から日光まで片道3泊4日の行程の負担は大きく、忌避するものもあったそうだ。
 一方で、農民の身分も併せ持ちながらの千人同心達は、武士の身分として取り扱われることに優越感もあったようだ。

蝦夷地開拓

 このころロシアは、千島列島へ勢力を南下させていた。津軽海峡を太平洋に抜ける異国船もあった。こうした事態に迫られて幕府は、まず東蝦夷地(太平洋側)を、次に蝦夷地全域を直轄地にしたのだった。
 そして、津軽や南部などの藩士数百名が、要所要所にはりつけられていた。

 八王子千人同心の原半左衛門、原半左衛門は蝦夷地の交易が幕府の直轄になっており、寛政11年(1799年)に蝦夷地が外国からの脅威にされされたため、北方の警備と開拓のため八王子同心の移住を願いでました。
 寛政12年(1800)4月には、組頭原半左衛門を隊長に、第一陣の50人が半左衛門に白糠千人同心像率いられ白糠(シラヌカ)に、弟新介を副士として勇払(ユウフツ)についた。
 河西祐助は原隊とは別に幕吏の見習いとして妻子を連れて勇武津に入った。
 勇払は近世の蝦夷地の要所のひとつといえる。太平洋から水系を上って千歳川源流域に入り、分水嶺(ぶんすいれい)を越えて石狩川へと下る人の流れもあった。
 このようにして農業をしつつ、南部藩の警備をおぎなうことになったわけです。

 千人同心の蝦夷行は、子弟、厄介(家長の世話になっている親族)、困窮者の救済というのが表向きの通説になっているようです。
 しかし、それだけの理由で、53歳にもなった半左衛門が本当に千人頭という役職を捨ててまで函館奉行の下についたのか、また51歳の新介がこれに従ったのか疑問を呈する研究家もいる。
 ある学者は、当時、続発していた千人同心たちの失敗(間違えて江戸城でこの身分では入室できない部屋に入って降格された者や手続きミスで左遷された者など後を絶たなかったようです)を補い、一発名誉挽回のためにこれを提案したのではと考えているようだ。

 千人同心は、今は農民の身分も併せ持つものだが、そもそもは名誉を重んじる旗本身分である。蝦夷地開拓を名誉回復の一発逆転のチャンスととらえたというのです。
 幕府は移住隊に対し鉄砲を贈ったり、道中の警護をつけたり、同行の役人を心身頑健で 北方勤務の意思も強く家族と熟慮させて選抜した人物をつけたりしたので、原半左衛門はいたく感動したようです。

 さて、ユウフツ(勇払)・シラヌカに移り住んだ者は、あわせて130人となります。
 このうち33人が八王子にかえることなく、蝦夷地で犠牲者となりました。勇払は火山灰地で、加えて湿地が多く、農耕は難しかったようだ。地味の良い近隣の鵡川で開墾をはじめたが、いずれにしても内地とはあまりにちがう気候風土であり、計画は、困惑のうちにわずか4年あまりで破綻してしまった。同心たちは、営農に慣れていたとはいえ北海道の荒涼とした原野と、厳冬の生活は想像を絶する厳しさであったのでしょう。

 白糠での犠牲者は17人で、このうち15人が3年目の享和2年(1802)に死んだとされている。
 多くの犠牲者をだしたのは、自然条件に対する理解と対応が適当でなかったこともあるが、生活必要品を手当することができず、予定していた自給自足の農業も定着することなく、食糧不足を経験することになったためとも言われ、また幕府としても漁場開設の努力に比べると、寒冷地農業の技術指導も、それを育てる体制もなかったからと言われます。

 なお、文化元年(1804)原半左衛門に箱館奉行支配調役という肩書きをあたえ、同心を「箱館地役雇」にというかたちで幕府雇とします。
 これは、開拓のためよりも警備の一員としての役割を明らかにしたものです。原新助は幕府の箱館奉行所に移り、有珠の原野で南部馬を繁殖させる役を担った。
 この後、エトロフ島の番屋がロシア船に襲撃されたさい(1807年)、戦った守兵の中には八王子千人同心もいたとされている。
 事業は霧散したとはいえ、彼らの中にはその後も蝦夷地に貢献した者が少なくなかったのだ。

 尚、八王子市は、この千人同心が取り持つ縁で、昭和48年に苫小牧市と姉妹都市となりました。また平成12年は勇払原野の開拓200周年を記念し、苫小牧市で八王子千人同心慰霊祭が行われました。

 北海道での悲惨な状況を物語る「夜泣き梅女」の悲話が今に残る。

千人同心の文化への功績

 泰平の世にあって、武士の身分ながら千人同心の中から地方文化に貢献する人も出ました。また、江戸市民の消費生活には、衣料品の需要も多くありました。
 八王子織物の取引が盛んになってきたのは、文化・文政時代(19世紀前半)で、文字や計算の必要から教育も普及してきました。
 また、軍事的な任務が少なくなると同心達は、幕府の「江戸昌平坂学問所」に通い、様々な学問を習得していくことになります。
 千人同心からは学識に秀でた者が輩出し、地誌の編纂など文化的な面でも業績を残す活動をしています。

 上田孟縉は学塾を開設して「武蔵名勝図会」を著作しましたし、原胤敦と共に、「新編武蔵風土記稿」の編纂に寄与しました。
 また、塩野適斎は「桑都日記」を書きました。
 松本斗機蔵は最上徳内と交際して漢学を学び世界を視野に入れて「献芹微衷」を著わして海外事情を研究し、幕府に海防論を提言しました。
 蘭学者の秋山義方、伊藤猶白は医療に新方を採用し、洋書の翻刻もなしています。
 その他、国学者・漢学者などが出て、塾を開き児童に教える同心もありました。

幕末の千人同心

幕末になると、揺れ動く日本の政情にともなって、千人同心の近辺もにわかに騒がしくなります。
 相次ぐ将軍の京都上洛のお供や賊徒追討のための甲州出兵、開港地横浜の警備、長州征 討への従軍というように、公務が急増していきました。それまでの槍に代わって、銃や大砲など西洋式の軍事調練が導入されていった。慶応元年(1865)九月には幕府陸軍奉行の支配下に組み込まれることになり、翌年十月には千人隊と改称された。

 慶応3年(1867)、大政奉還により事実上徳川幕府は崩壊しました。慶応4年(1868)4月、参謀板垣退助率いる東山道鎮撫軍が八王子に到着すると、これを迎え入れ恭順の意を表するとともに、徳川家に対する寛大な処分を願う嘆願書を提出している。千人隊も解体することになり、千人頭は徳川家に従って静岡へ移住、中には新政府に出仕した者もいましたが、大多数は「脱武着農」、すなわち武士を捨て農民になる道を選びました。

 一方、蝦夷地に残った同心達は、同年(1868)10月、新政府に対抗する最後の勢力を率いて渡航してきた榎本武揚の旧幕脱走軍との衝突にまきこまれる。多くの同心が命を失い、あるいは榎本軍に招じて戦った者は新政府軍に捕えられた。
今も八王子とその周辺には千人同心の子孫が数多く住んでいて、貴重な古文書や資料を伝えています。

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主な千人同心

植田 孟縉(うえだ もうしん)

 中央高速八王子インターチェンジの北側に、地誌に関して、多くの著書をのこし た千人同心組頭植田孟縉の墓がある宗徳寺がある。 千人同心組頭である植田孟縉(うえだ もうしん)は、宝暦7年(1757)に三河吉田藩の藩医師熊本家に生まれ、植田家の養子となり19歳で組頭を引き継いだといわれる。千人町に漢学塾を開く。
 千人頭原半左衛門胤敦、組頭秋山善左衛門、組頭筒井恒蔵、組頭風祭彦左衛門、 組頭八木孫左衛門、組頭原利兵衛、組頭塩埜所左衛門(=塩野適斎)とともに、地誌捜索の命を受け「新編武蔵風土記稿」の編纂に携わる。この編纂に携わる一方で家職でもあった日光勤番の合間に『日光山誌』や、『武蔵名勝図絵』、『鎌倉名勝図絵』、『日光名勝考』 「浅草寺旧跡考」などの書物を記述した。
 天保14年(1843年)12月14日87歳で没しています。 植田孟縉の墓のある宗徳寺はもとは八木町にありましたが、昭和39年東京オリンピックの都市計画の為滝山町1-719に移転しました。今ある碑は昭和30年に建てられたものですが、墓誌は明治23年当時の物といわれています。

塩野 適斉(しおの てきさい)

「桑都日記(そうと にっき)」正続50巻の著者。 適斉は、安永4年(1775年)組頭河西家の次男として生まれ、寛政3年(1791年)に河西家と親交が深かった同じ組頭の塩野家の養子となった。若い時から学問に取り組み、儒学・天文学・暦学に詳しい養父からも多くを学んだといわれている。
 また植田孟縉,原胤敦とともに「新編武蔵風土記稿」の 編纂にも加わる。 適斉は剣術・太平真鏡流の達人でもあり多くの同心が剣術を学んだ。八王子のほか日光でも私塾を開き、多くの門弟を指導した。
「桑都日記」は、正編と続編から成る。正編は八王子や千人同心の通史を補う為の事項を中心に書かれている。

並木 以寧(なみき いねい)

天保の大飢饉で高尾街道・石神坂(元八王子町2丁目近辺)の田畑を提供し、村人たちを救った社会福祉事業家。私塾を開き弟子も多く、墓には「筆門五百余人造立之」と刻まれている。

原 胤敦(はら たねあつ)

蝦夷地御用を命じられ北海道に赴任。 また植田孟縉,塩野適斉とともに文化11年(1814)「新編武蔵風土記稿」を編纂。

原 胤歳(はら たねとし)

武田信虎追放後は武田晴信(のちの武田信玄)に仕え、山本勘助も討死した1561年の第4次、川中島の戦いで、上杉謙信が武田本陣に一騎討ちを挑んだとされる際に、武田信玄の近習で侍大将(足軽大将)だった原胤歳が機転を利かし、上杉謙信の馬の尻を槍で刺し、難を逃れたと言われている。

三田村 鳶魚(みたむら えんぎょ)

江戸風俗,文学考証の第一人者。千人同心の出といわれている。坪内逍遥らと車人形の研究や保存に努力した。

石坂 弥次右衛門 義礼(いしざか やじえもん よしたか)

千人同心顕彰碑 幕末,慶応4年(1867)3月、八王子千人同心50名を率いて日光勤番に赴いた。折しも新政府軍が日光東照宮に迫り包囲した。
 石坂弥次右衛門は、日光を戦火から守るため戦わずして、官軍の板垣退助らに日光を明け渡す。しかし八王子に戻った石坂は、戦う意志のあった同心達により非難を浴び、その責任をとって切腹した。60歳であった。
 しかし、あまりに不憫なのは、介錯は年老いた父桓兵衛七十九歳があたったことだった。
 それにしても彼はたまたま、日光では本来の勤番中の同心の代替で任務にあたっていたときの悲劇であった。後に日光東照宮を戦火から救ったことが認められた。

 日光市(栃木県)とは,千人同心の日光火の番が縁で姉妹都市になった。左記の石坂の墓前の線香立ては日光市から贈られたもので「日光市」と刻まれている。

松本 斗機蔵(まつもと ときぞう)

 千人同心 組頭で儒学者。 塩野適斉に漢籍を学ぶかたわら,湯島の昌平坂学問所に入る。 最上徳内,高野長英,渡辺崋山らと交流し鎖国の可否を論じた 「献斤微衷(けんきんびちゅう)」を著し、水戸・徳川斉昭に提出、幕府の外交政策の大転換 を提言した。

二宮 心斎(にのみや しんさい)

 幕末に千人同心の名簿といえる「番組合之縮図」を著す。 また明治になって「千人町」の名称を残すことにも尽力した。

小嶋文平(こじまぶんぺい)

 八王子千人同心のなかで小嶋文平が比較的しられた存在だったのは、『桑都日記』に彼に関する記述があることと、彼が書きあげた玉川上水の由来記が早くから三田村鳶魚などの識者の目にとまり取りざたされたためでした。

中島登(なかじまのぼる)

 千人同心の家系の長男、八王子在寺方村で生まれ育ち、近くで天然理心流を教えていた山本満次郎に師事。新選組の活動を助けるための情報探索、いわばスパイの仕事を行った。ご存じの通り、情報探索は新撰組の活動を支える上での重要な役目です。その後、鳥羽・伏見の戦い、甲陽鎮撫隊としての勝沼の戦いにも参加。近藤の死後も、最後まで土方と行動をともにし、箱館での敗戦後、捕虜として各地を転々とする。解放後は静岡で蘭作りに励み、財産家になった。また鉄砲屋としても大成した。時代の波にも翻弄されながらも明治期においても成功を収めた数少ない新選組隊士である。

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