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高尾山の文学・伝説・民話real estate

高尾山歌碑巡り

 高尾山山上の浄心門をくぐり、108段の階段を上ってきた参拝者達は、その参道の両側に続く文学碑にはたと足を止め、しばし見入る。     

 これらの碑に刻まれたひとつひとつの句や言葉を落ち着いた気持ちで読んでみるとまた高尾の違った魅力に気がつくことでしょう。

 高尾山は、昔から多くの歌人や俳人が訪れてはその自然の美しさに心を打たれ数多くの作品を残している。

 これらの石碑は、北原白秋や水原秋桜子といった有名な文学者のほかに、薬王院にゆかりの者や、地元で知られた俳人・歌人、戦争での思いで、母や父を偲び詠ったものと様々ですが、いずれも心に訴えかけてくるものがあります。
 これらの碑に刻まれたひとつひとつの句や言葉を落ち着いた気持ちで読んでみるとまた高尾の違った魅力に気がつくことでしょう。     
 

文学碑の路

渡辺水巴      昭和53年
大櫛静波      平成元年
持田緑峰      昭和59年
村野次郎      昭和57年
和知喜八      平成5年
若林牧春      昭和43年
佐藤文男      昭和58年
矢島古泉居     昭和59年
安田蚊枝      昭和53年
阿部ひろし     平成6年
平田拾穂      昭和59年
薄井薫       昭和56年
鈴木龍二      昭和53年
田中紀子      昭和57年
北原白秋      昭和37年

さて、数ある碑の一番最初にあるのが渡辺水巴の句碑です。

 白日はわが霊たまなりし落葉哉

 何時、水巴が高尾山を訪れたのか詳らかにされていないようですが、きっとこの高尾を訪れているのでしょう。
 渡辺水巴(わたなべすい)( 1882年明治15年6月16日〜1946年昭和21年8月13日)は、 本名 義 東京浅草生で、鳴雪・虚子に師事 俳句を専業とする俳人でホトトギスを代表する作家です。禅の思想や能の幽玄の世界に通じるかのような句風は、一読してその雰囲気に誘われるものの、平凡な素材を格調高く表現している場合も多く句意掌握までに時間がかかる句があると言われています。 

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 あはれかの八月二日の佛暁の 面影遠く 街復興す

 八王子は第二次世界大戦の終戦間際8月2日未明に米軍B29による空襲を受け、市内全域が焦土と化します。
 この歌は、それから20年経ち、鈴木龍二が、ここ高尾山に登り、ここから八王子市街を望み見て感慨にふけり歌ったものといわれています。

 鈴木は、昭和34年に多摩文化研究会を設立、機関誌「多摩文化」を主宰し、文化運動として埋もれていた地方史資料や研究者の育成にも尽力しました。「多摩文化」全24巻は地方史基礎文献の宝庫といわれ地方史に携わる人はその恩恵を受けていない人はいないといわれるほどの人物だった。

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 佐藤文男は、高尾山ケーブルカー鉄橋下にあった茶屋の四男に生まれました。高尾保養院の副院長となったあと、多摩相互病院に勤務、戦後は八王子八幡町に医院を開業しました。
 61歳の昭和45年に第一歌集「父」を刊行し、これをきっかけに翌年には「堅香子」(かたかご)を主宰、創刊するなど、開業医の傍らに精力的に短歌の没頭、多くの歌人も指導した。門弟の数は1500人に及んだという。

 歌碑は、母親への想いを高尾山に重ね合わせて詠んだもので、その愛情の深さを感じ取れます。

 ははそはの母とも思う高尾ねを 
  這い上りゆく春のさ霧は


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 昭和37年11月、詩人でもあり歌人でもあった北原白秋の20回忌に高尾山で初めて建てられた歌碑が迎えてくれる。
 奥多摩の小河内ダム建設に反対していた白秋は、こよなく多摩を高尾を愛してくれた人の一人だ。時として山を散策し、また山房にこもっては瞑想したといわれている。
 
 この歌は昭和12年白秋主宰の短歌誌「多摩」の全国大会が薬王院で行われたときの作である。仏舎利塔入口、設侍茶屋の前に大きな真鶴石に刻まれている。この碑面の文字は、白秋のペン書きを拡大し刻んだものだそうだ。

              「高尾薬王院唱」(『橡つるばみ』より)
    
 我が精進こもる高尾は夏雲の
  下谷うずみ波となづさふ

 「昭和十二年八月十六日より三日間に亙り、我が多磨の第二回全日本大会を武州高尾 薬王院にて催す、余はその前日より先行その参集を待つ。」

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 白秋の碑のすぐ近くには、白秋の門下生で、町田市生まれの歌人若林牧春の碑もたっています。、1911年北原白秋が創刊した文芸誌「朱欒」に加わります。
「朱欒」廃刊後は白秋の門下である河野慎吾、村野次郎らが発行した「秦皮」に属するのですが、1935年に白秋が多磨短歌会を興し、歌誌「多磨」を創刊することになると、これに入会して八王子支部を結成したといいます。
「多磨」終刊後は宮柊二が創刊した「コスモス」を経て、中村正爾の「中央線」会友となり、歌作を発表します。1965年10月に生涯唯一となる歌集『冬鶯集』を出版し。その3年後には1968年12月には高尾山にこの牧春の歌碑が建てられたのでした。

 惜春鳥 しきりに啼きて山ふかみ
  かそけき路をい行きかねつも

                 
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村野次郎    
  次きに層なす光ゆらきつゝ
   やまの泉の湧きあかりくる
       

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高尾山内の句碑・歌碑

 高尾山薬王院境内、大師堂の前には、水原秋桜子の歌碑があります。水原秋桜子(みずはらしゅうおうし)  明治25年10月〜昭和56年7月(1892〜1981)は、正岡子規(1867-1902)が拓き、高浜虚子(1874-1959)が大きく開花させた近代俳句をさらに豊かにした次世代の代表的な俳人です。

 高尾山との関係は、八王子への戦時中の疎開先であったことのようです。印象派の絵のような、爽やかで、明るい、絵画的な句を得意とする水原秋桜子ですが、東京空襲によって神田の病院、自邸を焼失し、昭和20年4月、八王子市中野に疎開。以後9年にわたってこの地に住むことになります。
 この句は昭和18年7月に、中西悟堂と一緒に「むささび」の声を聞こうと寺に一泊し、翌朝山を去るとき大杉の梢を飛び交う数羽の仏法僧を見て詠んだものと言われる。     
 
 仏法僧 巴と翔る 杉の鉾

 同じく大師堂北側には、南 南浪 の歌碑があります      
 
 うの花に暁起きや大法会

 また、社殿の左には、星野立子の句碑がある。 立子は、俳人高浜虚子の次女で、明治三十六年(1903)東京に生まれました。女流俳人の中村汀女、橋本多佳子、三橋鷹女とともに四T(ティー)と称されました。

 立子の作風は大らかで柔らかな情感が、自然の諷詠にすなおな形で表現されるという傾向で、虚子の主唱する「花鳥諷詠」の忠実な実践者であったといいます。

昭和五年に父のすすめで女流を主とした俳誌「玉藩」を創刊し、主宰した。同三十四年からは亡き父の跡を継いで、「朝日俳壇」の選者を続けた。
        
春風にのり 大天狗 子天狗

               

「若いお巡りさん」井田誠一さんの歌碑

 「思い出のワルツ」「白銀は招くよ」「ケ・セラセラ」などヒット曲の作詞家で生っ粋の八王子っ子を自認していた井田誠一さんの歌碑が八王子市を一望できる高尾山薬王院敷地内に建立された。井田誠一さんは1908年八王子生まれ。八王子中学校(現八王子高校)で教鞭をとった後、作詞家として活躍。

 「デーオ、デーオ」と歌う「バナナボート」は、キューバの労働歌だが、ハリーベラフォンテが歌って大ヒットしたものに井田誠一が訳詞を付けた物。ヌードモデル出身の浜村美智子が歌って大ヒットした。八王子市の歌、「太陽おどり ―新八王子音頭―」の作詞でも有名。同市長房町で85歳の人生を終えた。
 99年は7回忌にあたりこの建立となったもの。歌碑には、ヒット曲「若いお巡りさん」の歌詞が刻まれており、歌碑の前に人が立つとその音楽が流れてくる仕組みとなっている。

もしもし
ベンチでささやく お二人さん。。。。。。。

高尾山にお越しの折りは訪ねてみてはいかがですか。         




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