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小仏関所の歴史

小仏峠

 現在の八王子を通る甲州街道は、高尾山の麓、南浅川上流の案内川に沿う大垂水峠を越えて甲斐国(山梨県)へ通じているが、旧甲州街道は小仏川沿いに少し北側の小仏峠を越えていた。
JR中央本線と中央高速道路がこの旧道に添って走っている。

 武蔵の国と甲斐の国を結ぶ路は、その境界線上の峠を介して幾つかあり、時代によって様々に変化したようです。
 北から、雁坂峠、柳沢峠、大菩薩峠、松姫峠、そして笹尾根の幾つかの峠や、相模の国を経て和田峠、そしてのこ小仏峠と続き、現在一般道では最も交通量の多い大垂水峠となります。

 標高548メートル。
 旧甲州街道の難所だった小仏峠は、殆ど江戸時代に入ってから通行が盛んになったようで、それ以前の府中から西へのルートとして、古甲州道中があり、檜原村の浅間尾根を通る中くくり道だったのです。

 北の景信山と南の高尾山からの尾根と鞍部で、戦国時代の武田信玄の家臣、大月岩殿城主、小山田信茂が、武州滝山城を攻めた時に、碓氷峠(うすいとうげ)を越えて群馬県から埼玉県を通って八王子に攻め込みました。このとき、小山田信茂が率いる別働隊1000人が小仏峠を越えて滝山城の背後を突き廿里の砦を急襲しますが、このころ峠路として利用するようになったようです。小仏峠から大軍が攻めてくることを想定していなかった北条氏は窮地に追い込まれています。
 そして、室町時代末期に、北条氏照の八王子城の前進防衛基地として小仏峠の頂上に砦を設けて富士関役所と称していました。

 その後北条が破れ、関東を秀吉の命により家康が治めるようになって、小仏峠には家康の命で関所が設けられたのです。
 家康は、広い関東の西の端を治めるのに、当時武田や北条の残党を雇い入れて、屯田兵のように半農の千人同心を組織し、八王子に住まわせた千人同心にこの関所を守らせます。

 その後、関所は、山麓に移されてしまいました。

 小仏の名称は、古くは奈良時代に行基菩薩が宝珠寺という寺を建立し、その際に1寸8分(およそ5.5cm)の小さな仏像を安置したことに由来します。その寺は野火で焼失したので現存しません。
 さらに「ひばりより上にやすろう峠かな」という芭蕉の句碑があったと伝えられるがそれも現存しないようです。

 以前は、この小仏峠にはきのこや山菜、野草の店があり、飲み物が売っていたのだが、残念ながら廃業されてしまったよう。とりあえず、今はベンチやテーブルはあるので休むには便利だ。

 さて、この小仏峠には、明治天皇や太政大臣・三条実美の歌碑が建っている。
これらは、明治13年(1880)に山梨巡行の際に、明治天皇の通行を記念して建てられたものだ。明治天皇が甲州・東山道を巡幸された際は小仏小休所で馬車から輿に乗り換えて小仏峠を越えました。
 歌碑に刻まれている和歌は、三条実美が、命を受けて高尾山薬王院で詠んだものといわれている。

「来てみれば こかひはた織いとまなし 甲斐のたび路の野のべやまのべ」

 こかひはた織とは、蚕飼ひ機織り のことで、当時の多摩や甲州が養蚕や製糸、機織業でにぎわっている様子がわかる。

小仏関所

 さて一方移された小仏関ですが、関所が高尾山山麓になってからは本来は駒木野関所が正式の名前ですが、そのまま小仏関と呼ばれていました。
 甲州道中でもっとも堅固と言われた関所です。

 甲州街道に沿って、JR高尾駅を越え、中央線のガードを過ぎて少し行くとセブンイレブンがあるが、そこを右手に折れる。
ここは旧道、つまり昔の甲州街道である。

 15分ほど歩くと、小仏関所跡に着く。
現在は建物の前にあった、石碑(せきひ)の前に残る二つの自然石(しぜんせき)が残っています。
これは、通行人が手形をおいた手形石と吟味を待っている間に手をついていた手付石という。

 江戸時代の絵図によると、関所には東西に門が設けられ、敷地の北側に当時は間口7間半、奥行3間の番所が設けられていました。
 東門の外には川が流れ、駒木野橋が架けられていました。
 ここは日本橋からちょうど12里の駒木野宿にあたる。
関所周辺には竹矢来が組まれ、川底も深くして通行人の往来を厳しく監視したといいます。

 関所を通る旅人は、少し高い丸石に関所手形を出して乗せ、手前の平石に手をついて頭をさげました。明け六つから暮れ六つまでの間だけ通行が許されました。つまりは午前6時から午後6時まででこの門限は堅く守られました。
例外としては、京都または江戸から朱印を携帯した人馬、大阪定番または江戸南町奉行所の証文をもった者に限って夜間査証通行も許可されていました。
 また安政6年は庚申縁年として富士山の女人登山を許したため各地から女道者の列は小仏関所へひきもきらなかった。
この女手形には特別な処置をとったが祝い金と称して役得金(つまりはそでの下)が多分にあったようだ。      

 小仏関所は幕府の大きな目となって時代をにらんでいた。旧豊臣浪人のクーデターである由井正雪の事件は未然に鎮圧されたが、江戸から脱出する浪人や江戸に潜伏する浪人の取り締まりは徹底的だった。
小仏関所はその捜査本部にあてられ、女の髪を解いてまで過酷な取り調べを行ったという。   ちなみにこの関所、中里介山の「大菩薩峠」にも出てきますね。

 関所番は,始め八王子千人同心や関東十八代官の手代がかわるがわる務めていましたが、寛永18年(1641)からは、川村・佐藤・小野崎・落合の4家(3家の時代も)に定まった。
 関守は幕府と直接かかわる役柄で、江戸との交流などで教養を身につけ、地域文化を担う人々だった。
 関守の家からは「武蔵名勝図絵」の植田孟譜(小野崎家の養子)、川村正平、落合直亮・直澄兄弟、落合直文(直亮の養子)などが出ている。


落合直亮

 特に関所番のひとりであった落合直亮(なおあき)は、20才であとを継ぎ関守になるが、家督を弟の直澄に譲り、関所番をやめ討幕運動に奔走した人物です。
国学者相楽総三の檄に応じ、門人五人を率いて薩摩屋敷浪士組の副総裁となり、関東周辺の錯乱計画を次々に実行し、江戸市中を混乱させて幕府を刺激したといいます。
激怒した幕府側は薩摩屋敷を焼き打ちし、これが引き金となって幕府と薩・長が鳥羽・伏見で激突、戊辰戦争へと発展したといわれる。

 また、下諏訪駅より徒歩十~十五分、赤報隊の本陣跡があるが、この本陣の近くの秋宮内の明神並木に一晩中縛り付けられていた相楽総三達は、慶応四年(一九六八)三月三日に「磔田」と呼ばれるところで処刑された。これが現在の魁塚である。
同志相楽総三の死を知った落合直亮は、事件を裏で操った岩倉具視を殺害しようとして面会したが、逆に老練な岩倉に諭され、忠誠を誓う結果となった。
明治期には西郷隆盛に関東の事情を伝えたり岩倉具視にも協力している。
相楽の汚名が名実共に晴れるのは昭和に入ってからとなる。魁塚碑が建つのは昭和五年(一九三〇)だった。

 明治三年、ここに伊那県大参事(副知事)となった落合直亮は木曽谷の国学者たちの協力を得て、下諏訪で処刑された同志を思い相楽塚を建立した。

 明治元年(1868)落合直亮は陸前志波塩釜神社宮司、伊那県判事、三年後に伊那県大参事に昇進した。
しかし、翌四年に冤罪で失脚、多くの国学者と同様に閉職に甘んじ、不遇のうちに明治27年没する。

 また、直亮の弟である落合直澄も兄とともに倒幕運動に参加した。
明治になってからは皇典研究所講師、「大古事記考」などの著作がある。明治24年没する。
 小仏関跡の広場に立つ「先賢彰徳碑」は、落合直亮・落合直澄・川村光豁(正平)らの徳をたたえるため1930(昭和5)年に浅川好史会によって建てられた。

 尾崎行雄の書による。碑の裏には 落合直文の弟子、与謝野鉄幹が詠んだ「すがすがし関所の松風にとこしえ聞くは大人(うし)たちのこえ」がきざまれています。

 また、このときその除幕式に出席した与謝野幹・晶子夫妻が小名路の旅館花屋に宿泊し、以下の歌を詠んで知る

岩魚をばすすきにとふしひたしたる 山のくりやの朝の水おと 寛
をかしけれ人目の関の掟には あらぬ山がの関の話も 晶子

関所の今

 全国の関所は、明治2年(1869)の太政官布告により廃止されます。小仏関も例外ではなく、建物は取り壊されてしまいました。

 明治21年(1888)に甲州街道は小仏峠を通る道から、現在の大垂水を越える道へ路線変更されました。
その後旧道を保存しようという気運が高まり、関所跡は昭和3年に国の史跡に指定され今は小さな公園になっています。

 現在は旧道の面影を残し、また梅の名所としても知られ、ハイキングの人たちで賑わいます。

 また、11月中旬土、日曜には、市民手作りの「いちょう祭り」が開催されますが、この期間中には、数々のイベントが繰り広げられ、中でも小仏関所跡にちなんで「通行手形」を発行しこれを持って回る「関所オリエンテーリング」は、毎回好評を博している。

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