本文へスキップ

大人の甲府旅をご提案〜甲府通信は観光、歴史、グルメ、温泉と隠れた甲府の魅力を紹介します。

コンセプト風林火山と武田二十四将

 甲府は武田信玄公一族のふるさとです。広い盆地には信玄公ゆかりの由緒ある神社仏閣が数多くあり、一族の栄華の夢の跡を今に伝え後世に残すところです。
 風林火山の軍機を翻し、戦国最強の騎馬軍を率いた武田信玄。武人であり、上杉謙信との死闘を繰り返しながら、一方で優れた統治者でもあった信玄の足跡をたどる旅。
 武田信玄と武田氏に焦点を当てて、ゆかりの地を訪ねていきます。

武田氏の栄枯盛衰
武田の館・城を訪ねて
信玄公ゆかりの地を訪ねて
甲府五山
風林火山と武田二十四将



風林火山

武田信玄

 山梨の表玄関・JR甲府の南口駅前でまずお目に掛かるのが、かの「武田信玄公像」です。軍配団扇を握り時の趨勢を見届けるようなやや厳しい顔をしています。武田信玄あっての甲斐の国、山梨といえるでしょう。

 「風林火山」とは軍隊を動かす際の理想的な動きとされる孫子の一節。『孫子』は春秋時代・呉の国の孫武の兵法を伝えたものとされ、三国志・曹操が注釈をつけ、現在の形となっているといわれている。本来はこれに加え「難知如陰(知りがたきこと陰の如く)」「動如雷霆(動くこと雷霆の如し)」という文もあります。

その疾(はや)きこと風のごとく
其疾如風

その徐(しずか)なること林のごとく
其徐如林

侵掠(しんりゃく)すること火のごとく
侵掠如火

動かざること山のごとく
不動如山

知りがたきこと陰のごとく
難知如陰

動くこと雷霆のごとし
動如雷霆

 「軍隊を動かす際は風のごとく速く動き、軍隊を留める際には林のごとく静かにして敵に行動を悟られぬように、攻める時は火が全てを飲み込むように手を緩めず一気呵成に攻め、守るべき時は山のように微動だにせず守り続けよ」という意味です。

 日本で最初にこの旗を用いた武将は北畠顕家であるとされていますが、江戸時代以降の軍記物などで武田軍をイメージするものとして盛んに取り上げられるようになった。

 武田の軍旗は、前半4行から「其」を略し「疾如風徐如林侵掠如火不動如山」の14文字が書かれています。

 その武田氏は甲斐源氏であり、八幡太郎義家の弟である新羅三郎義光に始まると言われています。実際は義光の子である義清が常陸武田郷(茨城県勝田市武田)にいられなくなって甲斐に流れたとされています。義清の子である清光には多くの子があり、甲斐の国内各地に分封されて大きな勢力を持つようになりました。

 その後は源頼朝に警戒され粛清を受けたり、中先代の乱や上杉禅秀の乱などで打撃を受けるのですが、一族が甲斐守護に返り咲きます。

 守護から戦国大名化し武田信玄の父である信虎の時代に国内をほぼ統一するのです。信玄の時代には信濃を初めに、西上野・駿河・遠江・三河と現在の山梨・長野・静岡・群馬の一部にまで版図を広げ、全盛期となるのでした。
 
 晩年の信玄は京都を目指して上洛の軍を起こし、遠江(静岡県)の三方ヶ原で徳川勢を粉砕しましたが、病気のため、夢むなしく信州の伊那駒場で53歳の生涯を閉じました。勝頼がこれを継いだのですが、織田信長に攻められ武田氏は滅亡する。江戸になってからは武田氏の子孫や旧臣は徳川氏に仕えることになります。



武田二十四将軍

 

 武田家は多くの優れた家臣たちによって支えられていました。彼らはある時は戦場を駆ける武将として、またある時は領国統治を行う官僚として、様々な役割を担っていました。この武武田二十四将田二十四将は、信玄・勝頼を支えた実在の人物で構成されていますが、フィクションの面もあります。

それは、この武田二十四将が、同じ時期に活躍した武将ではなく、信玄・勝頼二代にわたって仕えた人々の総称なのです。

 しかも、戦国の時代といわれる当時から「二十四将」と呼ばれていたわけではないのです。

 江戸時代にベストセラーとなった「甲陽軍艦」の影響で、武田家を題材とした浄瑠璃や歌舞伎が話題に。甲州軍団が一躍有名となり、彼らの中から24人を選抜して絵を描くことが流行しました。
 これが武田二十四将というわけで、武士の主従の理想像として広く親しまれました。

 高坂弾正、馬場美濃守など名だたる武将たちとともに、山本勘助も二十四将図に登場しています。24人は絵を描いた人によって異なり、登場した武将の合計は50人を超えるとも言われています。


秋山信友(秋山虎繁) 1527年−1575年
三方ヶ原の戦いでは、信友は山県昌景隊とともに家康を急追し、命からがら浜松城に逃げ戻った家康は「さても秋山信友、武田の猛牛に似たる恐ろしき男」と言ったといわれる。猛虎猛牛と異名をとるほどの剛のものだった信友の豪胆ぶりが覗われる。

穴山信君 1541年−1582年)
武田親族集筆頭頭格の立場でありながら武田家滅亡直前、徳川に寝返った離反者とされている。

甘利虎泰 1498年?−1548年
虎泰は信虎、信玄の二代に仕え、信虎の代からの侍隊将である。板垣信方、飯部兵部らとともに合戦では常に先陣をつとめた剛の者として知られている。信玄自身も負傷し、初の負け戦となった天文17年(1548)2月、信州上田原での村上義清との6時間にもおよぶ激闘で、板垣信方らとともに武運尽きて戦死した。

板垣信方 1489年?−1548年
信方の手腕力量を高く評価していた信虎は、信玄の伝役(もりやく)に任じ、信方は信玄の武将教育に尽力した。『甲陽軍鑑』には、信玄を疎ましくした信虎にいつも信玄を庇ったとされている。文学に熱中する信玄を死を賭して諌めたという。

一条信龍 1539年?−1582年
気骨がある一方で、風雅を解する武将でもあったようです。長篠の敗戦では、馬場信春と共に、本隊が退くまで戦場に留まります。武田氏滅亡の折には、徳川軍を迎え撃ち戦うが、捕らえられ処刑される。

小畠虎盛(小幡虎盛) 1491年−1561年
元は遠江郷士であったが、父の時甲斐・武田氏に仕えた。14歳の時父が戦死し、家督を継ぐ。以後“鬼虎”と怖れられる程の勇者となり、軍功を重ねた。川中島の合戦を前にし病死。遺言は「みのほとをしれ」であったといわれる。

小幡昌盛 1534年−1582年
信玄の計らいで、鬼美濃と評された原虎胤の娘を正室とした。対後北条氏戦に従事した後、内藤昌豊の配下として西上野の総横目を務めた。1582年、織田信長・徳川家康連合軍が甲斐に侵攻する(武田征伐)が、昌盛は病床にあったため参戦できなかった。武田氏の敗勢が濃厚になりつつあった時、落ち延びゆく勝頼に甲斐善光寺で暇乞いをしたのち病死した。

飯部虎昌 1504年?−1565年
飯部虎昌が率いた飯部隊は「飯部の赤備え」と言われ、騎馬武者から兵卒に至るまで一人残らず武具、差し物、馬具の全てを赤一色に統一していた。赤一色の飯部隊の突撃は火の玉が飛ぶような勢いを見せ、敵は戦う前から戦意を失ったという。

小山田信茂 1539年−1582年
信茂は信玄、勝頼の二代に仕え、『甲陽軍鑑』によると騎馬200騎を擁する侍隊将とある。現在の都留市に居館を持ち、岩殿山城は防備の山城として警固していた。

高坂昌信(春日虎綱) 1527年−1578年
信玄、勝頼代における代表的な知将である。信玄の寵童だったとも言われている。武田家の滅亡を知ることなく52歳で病没した。

三枝守友(三枝昌貞) 1537年−1575年
長篠の合戦では、守友は信玄の弟・武田信実と鳶ノ巣山に陣どったが、徳川方の率いる4000の軍勢の奇襲攻撃を受け、守友らの防戦も空しく信実、守友らは討死した。

真田幸隆(真田幸綱) 1513年−1574年
「六連銭」の旗印で有名な信州の名流真田氏の氏祖である。信玄が一生に一度の負け戦と言われる村上との戦後、幸隆は策略をもって村上軍をわずかな手勢で撃滅させた話は有名である。これ以後「信玄公あるところ必ず幸隆あり」と言われるほど、輝かしい戦歴を残したことが「真田三代記」などに書かれている。天正元年(1573)5月、信玄の後を追うように世を去った。

真田信綱 1537年−1575年
長篠の合戦で信綱も青江貞次の陣刀をふりかざして敵陣に切り込んでいった。弟の兵部丞昌輝も負けじと斬り込み、真田兄弟は勇戦して敵を倒したが、ついに銃弾の前に壮烈な討死を遂げた。

武田信繁 1525年−1561年
永禄4年(1561)8月、信玄は謙信と川中島の八幡原で決戦。武田軍は上杉軍を前後から攻撃する“きつつきの戦法”を策したが、逆に奇襲を受けてしまった。大混乱に陥った本陣を、信繁は死力を尽くして守り抜き、花々しい戦死を遂げた。

武田信廉 1532年?−1582年
川中島合戦後、信繁亡き後は親族衆の筆頭として信玄を補佐した。信廉の容貌は信玄と酷似していたといわれ、数々の合戦で“影武者”をつとめ、没後も敵を欺くために信廉が信玄の身代わりをしたという話も伝えられている。

多田満頼 生年不詳−1563年
満頼は信州虚空蔵山の砦を守備したとき、火車鬼を退治したという伝説を持つ豪傑であった。

土屋昌次(昌続) 1544年−1575年
信玄没後は勝頼のよき相談相手となった青年将校であったという。長篠の合戦で昌次は勇敢にも単騎で馬どめの柵の中に乗り込み、柵を引き倒そうとしたところを鉄砲隊の集中攻撃を受けて戦死したことが『四戦紀聞』の中に書かれている。

内藤昌豊 1522年−1575年
長篠の合戦で味方の不利を悟り「力攻めをすれば味方の損害が大きいことは必定。よって長期戦の構えが有利。」と勝頼に進言したが受け入れられず、もはやこれまでと、甲州武田武士の最後を飾り敵の銃火の中へ飛び込んでいったのである。

馬場信春 1515年−1575年
有名な長篠の合戦で勝頼に帰陣を勧めたが受け入れられず、武田軍は壊滅的な打撃を受けた。敗走する武田軍のしんがりという、最も困難な役目を引き受け、安全圏に勝頼が脱出するのを見届けると、馬首をかえして敵陣におどり込み華々しく討死した。

原虎胤 1497年−1564年
合戦に臨むこと38度、全身に受けた向こう疵は53ヶ所を数えたという剛の者として知られている。

原昌胤 1531年−1575年
昌胤は、知将とうたわれた父同様非凡な才能をもち、信玄の期待通りの鮮やかな陣馬奉公ぶりを発揮して「陣取りのことは隼人佑にまかせよ」と信玄にいわしめたほどであった。『

山県昌景 1529年−1575年
飯部兵部少輔虎昌の弟で、兄に劣らぬ勇将の片鱗を見せた。
長篠の合戦で、武田軍の劣勢を挽回しようと敵陣に突入した昌景は全身に数弾受けたが、落馬せず采配をくわえたまま絶命したといわれている。

山本勘助(菅助) 1493年?−1561年
武田の軍師であった勘介は『甲陽軍鑑』によると天文12年(1543)に武田の臣となり、永禄4年(1561)の川中島合戦で戦死するまでの19年間、信玄の知恵袋として活躍した知勇兼備の将として知られた猛将であり、武田武将群で一番知名度がある。ところがこれほど勇名でありながら、勘介ほど正体不明な人もいない。戦国ロマンというベールに包まれたなぞ多き人なのである。

横田高松 1487年?−1550年 )
村上軍との戦で殿軍をつとめた高松隊が背後から襲い掛かる村上軍と戦う間に、信玄は本陣とともに安全地帯に向かった。しかし、村上軍に包囲された高松は隊1000人とともに戦死した。

甘利昌忠 生没年未詳

小幡信貞 1540年−1592年

小原広勝 生年不詳−1582年

小山田昌辰(小山田虎満) 生年不詳−1579年

栗原信盛 生没年未詳 栗原氏 未詳

真田昌輝 1543年−1575年

曽根昌清 生没年未詳 未詳 未詳

曽根昌世 生没年未詳 未詳 未詳
昌世は、どの国に対しても先方の動きに疑いがある場合は、私情をはさまず客観的に言上するという役目であった。武田家滅亡後は家康に従い、武田旧臣を家康に帰属させるための起請文奉行をつとめた。

武藤喜兵衛(真田昌幸) 1547年−1611年
昌幸の長兄は源太左衛門尉信綱、次兄は兵部丞昌輝、そして弟は隠岐守信尹である。三方ヶ原の合戦ではこの四人の兄弟が出陣し、真田兄弟の勇名を轟かせた。武田家滅亡後は織田信長から本領を安堵されたが、その後、家康に従った。しかし昌幸は上杉、北条、徳川などに不即不離の立場をとり、戦国末期に独得な生き方をした。

諸角虎定(室住虎光) 生年不詳−1561年






スタッフ写真

甲府通信店舗情報

 甲府通信は、観光情報のみでなく、歴史、風俗、伝説、美食、温泉と甲府にかかわる情報をまとめて提供する総合サイトです。


→アクセス