高尾山にのこる弘法大師の伝説高尾通信

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高尾山弘法大師伝説

 高尾山をはじめとする八王子には至る所に「弘法大師」にまつわる伝説が多くあります。しかしそれがすべてほんとうに弘法大師なのかというとそうではなく、ある時は空也上人であったり、慈覚大師元三大師(良源)や理源大師であったりします。

 一般的に大師さまというと多くの人は弘法大師を意識するようですが、諸国行脚の名僧高僧また時には名もなき修行僧がなした功徳や行為がそのままお大師様、つまり弘法の功徳として語り残されているようです。

 八王子はその土地柄、旅人の往来は頻繁でした。それらの旅人に対する土地の人々の対応はとても親切で思いやりがあって街道べりの民家では難渋している旅人を助けたり、助けられた旅人がその恩を返すといった話が多く残っており、これが弘法伝説に結びついたことは十分考えられます。

 確かに弘法大師は若い頃より全国を行脚しているようで、各地に多くの伝説を残しています。あなたの住む町にも「この井戸は昔お大師様がこの地に来て・・」といったようなお話が伝えられていませんか?もっとも多いパターンのひとつに乞食坊主が実は弘法大師だったというもののようです。 

 また、しばしば杖を立てると温泉が噴き出したり、仏像を刻んだりまた各種の奇跡を起こしたことになっています。日本の温泉の3分の1 くらいは、伝説で空海か役行者が見つけたことになっているかも知れません。

弘法大師って誰?

 それでは、そもそも弘法大師とはどんな人物だったのでしょうか。

 弘法大師、空海は、774年(宝亀5年)6月15日讃岐国(香川県)多度(たど)郡屏風(びょうぶ)ヶ浦の「善通寺」で生まれました。幼名を真魚(まお)といいました。父の名を佐伯直田公 (あたいたぎみ)と言い、佐伯氏はこの地を治めた豪族でした。

 母親の玉依 (たまより)は阿刀氏の出であり、叔父の阿刀大足は桓武天皇の高尾山 弘法大師皇子伊予親王の儒学の侍講(師)でした。大師は佐伯一族の期待を一身に受け、非常に高い教育を受けていました。

 15才の時上洛し当時唯一の大学に進学して明経道(経書科)に籍を置きましたが、あるとき1人の修行者から「虚空蔵求聞持の法」という記憶力などが身につく秘法を授かった事をきっかけに官吏の道を捨て出家を決心します。

 18才のときに、大学の明経科の試験に合格して大学博士岡田牛養に春秋左氏伝等を、直講味酒浄成に五経等を学んだのです。明経科は正統儒教を教える学科でした。

 その後四国に渡り、修行を行ったのが室戸と言われています。大師は雨露をしのぐために御厨人窟に入って修行をしていましたが、ここに入って洞口を見るとそこはまるで窓のようで、水平線に劃された空と海しか見えません。

 空のような、海のような、広大にして無辺なもの。この悟りは「空海」という名に現していると言われています。その後、都で南都六宋の教学を学んでいるときに、大日経の写本を見つけ、密教的宇宙観にひかれるようになりました。   
                
 804年(延暦23年)桓武天皇の特旨で天台宗の開祖・最澄と共に唐の高尾山八十八大師国に渡り、長安の青龍寺で恵果阿舎利(けいかあじゃり)から密教の全てを学びました。
 この時「阿舎利遍照金剛」の名をもらい、真言密教第8祖となったのです。2年の留学を終え、帰国後の1年は九州で教えを広め、翌年上京し天皇より真言宗開創の勅許を得ました。

 806年(弘仁7年)に高野山に堂宇を建立し、宗教活動のみならず、教育の普及や社会事業に力を入れ民衆のために尽力しました。弘法大師は、嵯峨・惇和・諸天皇の三代にわたる天皇家からの依頼で国家安泰の修法を勤めました。835年(承和2年)、高野山金剛峯寺において62歳で入定。921年(延喜21年)に醍醐天皇は弘法大師号を贈りました。

(伝説その1)多摩の二度栗

 さて、その弘法大師のこの地方に伝わるお話ですが、「多摩の二度栗」というのが、あります。 

 これは、山の根地方に伝わるお話ですが、以下のようなものです。 
昔、武州多摩郡の山の根の村には、たいそうできのよい大型の栗がたくさん取れたそうだ。
ある秋のこと、腹をすかせた旅の乞食坊主が、ふらふらとやってきておいしそうに栗を食い散らかしている村の子供たちに「栗を一粒めぐんでくれ」とたのんだそうだ。

 子供たちはそのみすぼらしい乞食坊主をみて「いいとも食え」といって空の食い残しの殻をほおったそうだ。その乞食坊主は悲しい顔をして次に村の中にある大きなお屋敷にきたそうだ。

 そこでは大人たちが縁側に腰掛けて栗を食べていたそうだ。乞食坊主は大人達に声をかけて「栗をひとつめぐんでくれ」といったが、大人たちは「いいとも食え」といって空の食い残しの殻を投げつけたそうだ。乞食坊主はたいそう悲しい顔をして村の外れにあるそれは見るからに貧しい小屋にやってきたそうだ。

 小屋には17才ほどの若者を頭に弟妹が4人住んでいたそうだ。父母はとうに死んでこの若者がみんなを養っていたようだ。
そこにこの乞食坊主がやってきた。
この坊主 はもう空腹で目もみえなくなっていたそうだ。「どうか栗を一粒でもいいからめぐんでくれ」と頼んだそうだが、この小屋にとっては一粒が一家の全部の栗だった。

 しかし見ればかわいそうに飢えやつれた坊様である。若者は弟妹に「いいな」と見まわした。弟妹は兄の心の優しさに気持ちよく応えた。

 「たった一粒ですがどうぞ食べてください」乞食坊主はたいそう喜んでこれを食べたそうだ。するとどうだろう。とたんに乞食坊主は元気になり、「ありがとう、みんなの優しい心が天に通じ、裏山に天の恵みをうけることだろう」と言い残し達者な足取りで村を出ていったそうだ。
 その後、不思議なことに、若者の裏山の栗林には、大型で美味な栗が、春と秋の二度なったそうだ。村人はこれを多摩の二度栗と呼んで大切に扱ったという。若者達はそれから幸せな生活を送ったという。この乞食坊主が実は弘法大師だったのです。 

(伝説その2)飯盛杉(箸立杉)

 昭和39年に都の天延記念物に指定された樹齢700年の杉の大木は、高尾山、薬王院の門前の茶屋を左の方に下ったところにあります。

 弘法大師が高尾の参道を登ってこられると、杉の木達は枝を震わせたり、葉を鳴らしたりして騒ぎはじめた。ところが途中の並木の1本が枯れ木となっていたのです。
 弘法大師は傍らの杉の木にたずねたところ、この間の落雷に打たれてしまったとのこと「千年を共にし弘法大師様のおこしを待っていたのですが非常に哀れです」と別の杉が言ったところ、弘法大師は、1枚の飯盛りの杓子を取り出すと、枯れ木の跡に突き立てた。
 するとあれよあれよと見る間に、ぐんぐん杉の木が伸びはじめ、枯れ木がよみがえって見事な千年杉となりました。 

(伝説その3)岩屋大師

 弘法大師が高尾山にやってきたところ折からの雨が、嵐と変わり、大師に容赦なく襲いかかってきました。
ともかく山を下り始めたもののこのままでは体が冷え切ってし まいます。岸壁ばかりの小道を行くと大岩の影に、ずぶぬれの姿でうづくまってい母子がいました。
 気の毒にと近づいてみると母の方は病気でその子でもが懸命に介抱しているではありませんか。

なんとかこの子のために雨宿りが欲しいものよと大師が合掌すると、突然、目の前の岩屋が音を立てて崩れ始め、ぽっかりと洞穴があいてしまったのです。
 大師はそこで母子の冷えた体を温め、嵐の通り過ぎるのを待ったということです。
 岩屋の中は外の嵐から完全に遮断されて暖かく、見る間にこの母は回復していったということです。この洞穴は、「岩屋大師」と呼ばれ、自然研究路6号の途中にあります。

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