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高尾山観光ガイドreal estate

高尾山豆知識

2−1.浅川地下壕秘話

 浅川地下壕とは、太平洋戦争末期に、高尾山の麓JR中央線高尾駅に近い八王子市の金比羅山、初沢山の山中に陸軍浅川倉庫として掘られていた巨大な地下壕のことです。現在の三和団地から高乗寺にかけての地下一帯に張り巡らされているその規模は長野市の松代大本営地下壕と並んで日本最大級という。

 1944年7月、陸軍は大本営移転候補地として米軍による本土空襲や本土決戦に備えて兵器や軍需品などの備蓄施設をこの南多摩郡浅川町に建設することを計画した。すでにサイパン・グアムなどのマリアナ諸島が壊滅し、本土上陸が避けられない状況になっていたころである。

 この地下壕工事は東京では最大級のものであり、「ア工事」と呼ばれた。陸軍東部軍経理部が施主となり、工事は1944年9月から鉄道建設興業へと発注してはじめられた。鉄道建設興業の下で工事を請け負ったのは佐藤工業であり、その下に敗戦までの1年近くにわたって朝鮮人労働者や陸軍工兵隊員らの手によって掘り続けられた。
 碁盤の目のように縦横に走る壕の総延長は10kmに及ぶ。全体は発破工法で作られている。これだけの規模のものを爆破しながら作っていった技術は当時の日本の掘削技術の高さを物語っているようだ。
 
 その後東京への空襲が激しくなり、中島飛行機武蔵工場が被害を受けるなかで、この浅川の地下施設は中島飛行機武蔵工場の地下工場として利用されることになった。1945年2月には第一期工事である落合のイ地区工事が完成し、工作機を据え付けて発動機生産がはじまった。さらに第二期工事がおこなわれ、イ地区の整備・拡充、金比羅山のロ地区、初沢山のハ地区の掘削などがすすめられた。この工事でロ地区は佐藤工業が、ハ地区では新たに大倉土木が請け負った。

 最近、この地下工場の研究をされている都立高校の先生が、同工場の地上にあった従業員宿舎や工場の配置図を見つけられたと話題になった。地下壕は、イ地区、ロ地区、ハ地区と3ブロックが建設されたが、諸般の事情で内部が公開されているのはイ地区のみである。

 完成部分イ地区では中島飛行機武蔵製作所第1製造廠として、エンジンが作られたという。45年4月から、現在の武蔵野市にあった中島飛行機武蔵製作所が、空襲にあったため、陸軍が当時掘削工事をしていたこの地下壕に疎開地下工場を組み込み、軍用機のエンジンがその中で作られた。この工場では、地上、地下をあわせ3〜4千人が働いていたとされている。

 そもそも中島飛行機は、1917年に設立された飛行機のメーカーで、いわゆる「ゼロ戦」(零式艦上戦闘機)をはじめ旧海軍や旧陸軍の戦闘機を3万機以上生産した実績を持っている。
 しかしこの地下工場の稼動は、終戦までの約3ヶ月間。計画では、月産500機をもくろんでいたものの、地下工場だけに湿気が多く、工作機械が頻繁に壊れるなどして結果的に作ったのは10機とされている。工作機械は錆びるばかりで、毎朝の作業開始時は、そのさびを落とすことが日課だったという。

 ロ地区は現在、史跡としての保存活動はしているが、住宅地として造成され、補強のため埋めもどしている。ハ地区は一ヵ所だけ京王高尾線の高尾と高尾山口間の線路脇に入り口こそ残っているものの、崩落の可能性が高く、現在は安全確保のため、鉄柵で閉鎖されている(写真)。近年、私立学校の移転計画に伴い、90年9月、地下壕の一部が破壊されることをおそれた市民からこの戦時下の遺構を平和史跡として残そうという請願が八王子市議会に提出されたことがある。しかしそもそもが私有地であることから手つかずのままといった感じだ。
 中には東大地震研の測定器もある。また、一時期はマッシュルーム栽培に使っていたとのことで、その跡地もある。

 平成14年8月、文化庁の「近代遺跡の調査等に関する検討会」が詳細調査対象としているが、二度とあの悲惨な戦争を起こさぬようその語り部としての保存が望まれる。

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