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八王子の地名起源説

 高尾山のある八王子の地名起源には諸説があるものの一般的には華厳菩薩妙行(けごんぼさつみょうぎょう)という名僧の伝説によるとされています。

 これは、城山の城跡公園の手前にある、宗閑寺(北条氏照が開基したとされている)に伝わる古記録『華厳菩薩記』に記述の伝説によるものです。
平安時代の延喜16年(916)に修行中の華厳菩薩妙行と言う高僧が、夢の中に牛頭天王(ごずてんのう)が現れ、八人の王子(将神)をこの地に祭ることを託され菩薩はこれを八王子権現(ごんげん)と名付けて祀ったというものです。後から述べるように、牛頭天王は祇園精舎の守護神とされ、薬師如来の化身です。

 また、権現とは神仏習合についての仏側からの説明です。仏・菩薩が衆生を救うために種々の身や物を権(かり)に現すことで、本地垂迹説では、仏が化身して、わが国の神として現れることを「権現」といいます。
これにより菩薩を慕う人々が地方から集まってきて山の下に村ができたといいます。
一方、北条氏照は、当時の居城であった滝山城が平城であることから戦略的には、欠陥がある城と判断し深沢山(現在の城山)に目を付け、天正10年(1582)にここに山城を築城しました。
 その守護神、城の鎮守として、牛頭八王子権現を祭り、城を八王子城と名づけました。これが八王子という地名の由来になったというのです。
八王子の名前がこの古記録に記されてから、1998年でちょうど420年になるといいます。

 一方、もうひとつの起源説は日吉山王社にあります。

 日吉山王社は、比叡山の東麓、近江国大津の坂本にある山王総本宮日吉大社が本社となっています。その末社のひとつが浅川の水無瀬橋の近にある日吉山王社です。天慶8(940)年の創立で、文禄4(1595)年に八王子明神を勧請してこの地域の総鎮守となったものです。

 江戸時代は「山王八王子権現」と呼ばれ、明治維新にやはり神仏分離によって日吉八王子神社となり、戦後は日吉神社と呼ばれています。
総本宮はもともと近くの牛尾山頂にあって、スサノウノミコトとアマテラスオオミカミがウケヒを行って生まれた、五人の王子を牛尾宮に、三人の王女を三宮に祀ったもので、これらを合わせて八王子とし、その山を地元では八王子山と呼んているようです。このため、日吉神社(山王八王子権現)が八王子の地名の起こりではないかという説があるのです。

ところで、これらの話の中に出てくる「牛頭天王」は、極めて複雑な神格を持っており、その来歴にも不明な点が多いのです。
 一般的には、護法神ですが、祇園精舎(インドの祇園にある寺)の守護神とされています。

 仏教は中国に伝わり道教とも混淆していったのですが、その地で牛頭天王は妻をめとることになります。相手を頗梨采女(はりさいにょ)と言います。夫婦は八子に恵ました。暦本に方位神の説明がありますが、その中心には女神の挿し絵付きで歳徳神、回りに太歳神以下の八方位神についての記述があるはずです。実は、これが頗梨采女とその八王子たちのことなのです。

 もっともこの神様、本来のイメージは、あまりありがたくないのです。ある伝説では、武塔天神の一行をもてなさない巨旦長者に対して、八王子と八万四千の眷属を率いて、一族皆殺しの罰を与える、とんでもない神様なのです。

 また、八王子は、本来は、八種類の疫病や災厄の象徴であったとも考えられます。牛頭天王も、殺戮する神から、殺戮者=疫病を制御する神へ、更に、疫病を防ぐ神=薬師如来と同体の神へと昇格していくことになります。中世後期は、室町幕府・戦国大名・国人武士団・宗教勢力などと、武装農民が入り乱れて、戦乱と破壊が続いた。そのためもあってか、戦国武将にあっては牛頭天王への信仰が盛んになったようだ。その中に北条氏照がいたということでしょう。

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