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高尾山観光ガイドreal estate

高尾山豆知識


3−22.日本野鳥の会

 高尾山山頂のビジターセンターの先、奥の茶店の右手前の一段下がった所に中西悟堂の歌碑がある。

 中西悟堂は,言うまでもなく,「日本野鳥の会」の創始者である。
 中西悟堂は、「野の鳥をありのままに、生きざまを見て、姿や声を愛でる」という精神のもと、「野鳥」という表現を生み出し、昭和9年に「日本野鳥の会」を創立したのでした。生涯かけて育てた「日本野鳥の会」は、一時揶揄(やゆ)されたように「紅白歌合戦」の得点集計係ではない。

 悟堂は、本名は富嗣、金沢市長町に生まれ、生後まもなく父母が死亡し、伯父・悟玄の養子となる。義父が僧侶だったため、16歳のとき東京都調布市深大寺で得度し天台宗の僧籍に入り悟堂と改名します。

 他方、若い頃から文学に目覚め、歌や詩を創作し、絵筆も取るようになります。若山牧水、高村光太郎、木村荘八など多くの文学者や画家たちと交流するようになり、同時にマルクシズム、アナーキズムの世界観を知るようになります。短歌には歌集「唱名」(大正5年)「安達太良」(昭和34年)「悟堂歌集」(昭和42年)、詩は詩集「東京市」(大正11年)「花巡礼」(大正13年)、その他にも随筆、訳詞などを執筆しています。

 30歳の時から3年間、突然、木食菜食生活に入ります。悟堂は林の中に机を置き、本を読み、雑草やメダカを食します。
 そして、物質主義の脅威への警告者だったタゴール、ガンジーに深く傾倒していきます。東洋の叡知こそが人類を幸福に導くと確信するようになります。

 「私には自然への帰依と信奉が強く、いかなる思想も自然を欠いては浮き上がってしまうという信念さえ持つようなってもいた。そしてその自然の中の第一の対象が鳥であった。」(『愛鳥自伝』)昭和3年頃から野鳥と昆虫の生態を研究して「虫・鳥と生活する」(昭和7年)を出版し、9年日本野鳥の会を設立し機関誌「野鳥」を創刊、鳥類の分布を調べ、その愛護につくし、わが国野鳥研究の権威となります。野鳥に関する著述と活動によりエッセイスト・クラブ賞(昭和31年)、読売文学賞(昭和43年)を受けます。

 日本野鳥の会が始めての富士山麓で探鳥会をしたのが1934年(昭和9年)のことです。当時は「野鳥」という言葉も、バードウォッチングなどもちろんない頃のこと。盧溝橋事件の3年前のことでした。当時の「野鳥愛好家」の楽しみと言えば,野鳥を捕獲,飼育して啼かせたり姿を楽しんだり,あるいは,狩猟して食したりと言うものが主流だったようです。野鳥は捕って食べるもの、飼うものという考えが普通であったようです。明治維新後は、特にそれまで領主に守られていた鳥獣類は乱獲されたといいます。

 また,「鳥学」という学問は既に成り立っていたのですが,学問として鳥の研究をする場合も,捕獲,標本作製から始まるのが普通でした。そこに,「野の鳥をありのままに,生きざまを見て,姿や声を愛でる」と言う野外観察を提唱したのが,中西悟堂だったのです。「探鳥会」と言う言葉は,中西悟堂の造語です。

 悟堂は、先にも述べたとおり僧籍を持ち,文人墨客との交流も深かったといいます。狩猟による殺生を嫌い,野外での野鳥観察を提唱した中西は,いわゆる文化人達を集め,積極的に野鳥観察を紹介しました。

 探鳥会に集った北原白秋や荒木畝など当時文壇や画壇で活躍していた人々が、野鳥の生息地に出向き、そのあるがままを楽しむことに共感し、我国で野鳥保護を広めるきっかけになりました。日本での自然体験の原点でもある1934年の記録では、北原白秋はコルリという鳥の卵を見せられてその美しさに涙し、若山牧水夫人はメジロの巣の精密さに愕然として固まってしまったそうです。また、悟堂は、水原秋桜子や柳田国男ほか多くの文学者、文化人を「高尾山」にも案内しています。高尾山にも非常に興味を持ち、高尾山が野鳥の宝庫であることを世に知らしめた人物でもありました。

 同行した文化人は,中西の観察力,識別力に舌を巻いたといいます。こうして支持者を集め,日本野鳥の会は,その歴史を歩み始めました。

  富士までに およぶ雲海ひらけつつ
    大見晴らしの 朝鳥のこえ  

 この歌は、昭和43年、薬王院で泊り、翌早朝に山頂から見た雲海を詠んだものだ。

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