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戦国の世に咲いた一輪の花 松姫物語

松姫の生涯

 八王子と言えば「千人同心」の町であるが、その千人同心達の心の支えとなったのが信松尼こと「松姫」と言われている。

松姫の誕生

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 松姫は永禄4年(1561年年)9月、躑躅ヶ崎(つつじがさき)館(信玄の居城)で誕生したとされている。父は武田信玄、母は側室の油川ご寮人で四女とも六女とも言われる。
 信玄はそのころ上杉謙信と川中島で合戦中だったが、当日の戦いから信玄が帰陣した際、早馬で姫出生の知らせが届いた。
 ふと眼を転ずると傍らには、大きな松の木がありこれにて戦勝間違いなしとして「松」と命名するよう伝達する命を発したという。 躑躅ヶ崎の屋敷では特に可愛がられたという。

 松姫誕生の4年後、永禄八年(1565)には、信長の娘が信玄の息子勝頼に嫁ぐという形で武田・織田に姻戚関係が結ばれた。 もっとも、信長の娘といっても実子ではなく東濃の苗木勘太郎の娘を養女として引き取り嫁がせているようだ。 
 しかしながらこの娘、遠山夫人は翌々年に亡くなってしまう。


武田との絆

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 あらたな絆として選ばれたのが信長の嫡男奇妙丸(信忠)と信玄の娘松姫との婚姻であった。

 しかし、清和源氏の流れをくむ由緒正しき武田家と成り上がり小豪族の織田家とは格差がありすぎた。
 武田家武将の多くはこの婚約は反対したという。だが上洛して全国制覇を目論んでいた信玄はこの婚約に同意したという。
 松姫と信忠の婚約は、勝頼の正室・嶺松院殿が死去したため、永禄十年(1567)に行われた。その時松姫7歳、信忠11歳の時であつた。 しかし、やはり松姫はまだ幼いため躑躅ヶ崎館の近くの新館に移らせた。 このことから、甲斐では松姫を新館御寮人と呼んだという。

 婚約が成立した早々から織田家からは数々の結納の品が届けられ、信忠からは文が届けられた。松姫は、折り鶴を信忠に届けられたという。どうやら信長が贈り物や文をまめに送るよう信忠に言い聞かせていたそうだ。 松姫も信忠へ頻繁に文を送る。 今ならば、LINEやメールによる遠距離恋愛というところだろうが、政略結婚とはいえ若い二人にとってこうやってたびたびの文通をして恋仲になっていったのでしょう。


武田との破談

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 しかし、世は戦国、何事もなければ天下人織田家に嫁いで、姉妹の中で一番華やかな生活を送るはずであった松姫に不運が始まる。いよいよ輿入れも間近という頃、二人は引き裂かれてしまう。 

 1572年(元亀3年)10月、武田軍は遠江の三方が原に出撃、徳川軍と一戦を交えたのである。この時、織田が徳川に三千の援軍を出したということが信玄に伝わり、この婚約は絶縁状と共に解消された。

 武田と織田か抗戦状態に入り、松姫と信忠は仇同志という立場に一転したのである。信忠15歳。松姫11歳の時だった。

 しかし、松姫も信忠もまだ見ぬ決められた相手への思いは消える事は無かった。この間、武田家嫡男義信は自刃、信玄本人も病がもとで1573年(元亀4年)53歳で亡くなってしまう。



武田の滅亡と逃避行

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 四男、勝頼が武田家の跡目を継いだものの無理な戦を続け、戦況はどんどん芳しくなくなった。
 天正3年(1575)長篠合戦に敗れた武田勝頼が織田信長・徳川家康の連合軍に追いつめられると、勝頼は異母弟である仁科盛信を南信濃の防衛の為に高遠城主に任じた。この時松姫も一緒に高遠城に入った。

 しかし、織田の猛攻が伝えられると、この地から逃避するしかすべはなかった。
 盛信の娘(督姫)と腹違いの兄勝頼の娘(貞姫)、人質である小山田信房の養女、4歳の香具姫らを連れて十数名の供とともに逃避の旅へと甲州路を東へと向かう。 

 松姫一行はとりあえず山梨の栗原に武田家重臣の姫が尼僧として住んでいる海洞寺があるので、そこに身を寄せてしばらくの宿とした。その間、織田の大軍は伊那の諸城を落城させている。

 高遠城では、1582年織田信長の命により甲州征伐が始まると、織田信忠を総大将とする5万の大軍に包囲された。
 このとき、信忠は盛信に降伏を勧告したが、盛信は勧告を拒否。降伏の使いに来た僧侶の耳をそぎ落として追い払ったとされる。高遠城は3月2日早暁から織田軍の猛攻に晒され、盛信は奮闘した後、自決した。享年26才であった。約500名余りの家臣も共に討ち死にして高遠城は陥落した。織田軍も300人の死者を出したという。そんな兄仁科盛信の壮絶な討死は、松姫一行の耳のも入ってきたと思える。

 危険が迫ってきたので大軍の驚異が迫る中、さらに逃避行を続け、塩山の向嶽寺にたどり着く。これを向嶽寺の住職は快く受けいれ八王子の金照庵がよい所だからと、保護依頼状をしたためた上、一夜の宿を提供してくれた。
 このころ、武田は天正9年(1581年)5月設楽原で織田・徳川の連合軍と戦い惨敗した。

 天正10年(1582)、織田軍に追い詰められた武田勝頼が味方の裏切りもありついに天目山麓の田野で自刃し武田が滅亡した頃、松姫ら4人は大菩薩峠を越えて険しい甲武国境の山並みを越えて武蔵に落ち延びてきた。目指すは八王子であった。

 北条氏政の弟である氏照は八王子方面の領主であり、松姫一行が落ち着こうとする上案下の金照庵やこの檜原の城も氏照の威令が及んでいる所である。
 また武田勝頼の北条夫人は氏政の妹であり、氏政の夫人は勝頼の義姉になっているので、氏照や平山氏は松姫一行を庇護してくれるものと信じての逃避行である。
 

愛する人の死

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 一方そのころ信忠は、松姫の生存を信じて探していたという。ようやく松姫生存の知らせは甲府にいる信忠の元にももたらせれた。信忠はもう一度あらためて松姫を娶りたいとの使者をおくり松姫に対し結婚の約束を実行する長い手紙を送る。

 松姫も再び送られてきた手紙に喜びを見い出した。北条氏照の配慮で上野原で織田信忠からの迎えの「輿」を待つ事となる。
 約束の上野原に到達した松姫達一行は「輿」の来るのを待った。早朝から昼そして午後になったが信忠からの迎えの「輿」はやってこない。

 そのときあわただしい知らせが届いた。織田信長、本能寺にて死す。 織田信忠 妙覚寺で死す。1582年(天正10年6月)松姫は茫然とたちつくす。


信松尼

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 金照庵に住んでいる時期に、松姫に対して近隣の若者から結婚の申し込みが数多く寄せられたが姫は顧みることをしなかった。
 下恩方の心源院に隋翁舜悦、通称 ト山和尚が居住していた。ト山和尚は向嶽寺でも修行したことがある高僧であった。

 松姫は世の無情と旅を通しての恩義を感じ尼となる決心をして、秋深くなった頃に心源院に身を寄せた。
 身を寄せた松姫が尼となる決意はとても固く、また氏照に会うのにも尼の身の方が都合よいと考えていた。なぜなら、連れてきた姫たちの安堵に繋がると信じていたからである。
 こうしてト山和尚の手によって黒髪を絶ち「信松尼」と名乗って武田家一門の冥福を祈る人となったのである。 
 「信松」の名は父、信玄からか婚約者信忠が由来か、あるいは両方からかもしれず情の深い一途な松姫の心情が伺えます。信松尼22歳であつた。

八王子と松姫

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 天下は家康の時代となり江戸幕府300年の礎ができた。江戸に入府した徳川家康は、甲武国境の警備を完全なものとするため、武田の遺臣を集めて八王子に千人同心を組織した。
 千人同心達は武田の旧臣として松姫を心から敬愛し、精神的、経済的に支援を惜しまなかったと伝えられる。遺臣たちにとっても信松尼の存在は象徴的なものであったのかもしれない。 

 また、家康は関東の総代官所を八王子に置き総代官には大久保長安を任命した。
 大久保長安もかっては武田の家臣だった。もともと家康は武田信玄を崇拝していたので、松姫が八王子にいるのを知り、寺領を贈り、消息も尋ねられたが、凛とした態度は変わらなかったという。

 松姫は、侍女たちとともに蚕を飼い、染物をそめ、機を織って生活する事となったが3人の姫を育てるのは大変な苦労だったと思われる。
 しかしながら、武田一族の菩提を弔られながら、さらに近隣の子ども達への手習いを教えたりして地元に根付き旧臣達はもちろん、その土地の人々からも大変慕われました。また絹織りに長けていたので松姫の織った織物が今も「八王子織り」として発展していくこととなったのです。

 家康は天下統一後に尊敬していた信玄の娘が、八王子で暮らしている事を知ると寺領を与えたりして庇護し、折に触れ消息をたずねていたそうです。松姫は皆に慕われ、その気高い姿と心は今も語り継がれています。

松姫眠る

ゲストルーム 1616年(元和2年(4月16日)、ただ一人の男を生涯愛し続け、戦国の時代を力強く生き抜いた松姫は、温かい人々に看まもられながら眠るが如くに56歳でその生涯を閉じた。

 案下にいたころから心源院の舜悦に師事し,臨終に際し,邸を捨てて寺とするよう舜悦に遺言し、没後10月徳川家康に仕えた旧武田の家臣たちの援助をうけて八王子信松院が建立される。

 法名 信松院殿月峰永琴大禅定尼。奇しくもその翌日17日には徳川家康もなくなり、日光東照宮に祀られた。その守護に千人同心は日光東照宮の火の番として勤める事になった。

 墓を囲む玉垣は、没後132年目に千人頭・千人同心らが寄進したもの。また一緒に甲斐から逃れてきた松姫の兄・仁科盛信の娘・小督(出家して玉田院)の墓は大横町の極楽寺にある。
 

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