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戦国の世に咲いた花一論 松姫物語

松姫を慕う人々

 親の命による政略結婚として、11歳と7歳の時に婚約が成立します。とはいえ、2人は文と贈り物のやり取りで交流を深めていきました。まだ見ぬ婚約者に、それぞれ憧れを抱いていたと考えられます。


武田信玄

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 松姫は永禄4年(1561年年)9月、躑躅ヶ崎館(信玄の居城)で誕生した。
 父は武田信玄、母は側室の油川ご寮人で四女とも六女とも言われる。
 信玄はそのころ上杉謙信と川中島で合戦中であり、その日の戦いから信玄が帰陣した際、早馬で姫出生の知らせが届いた。 
 武田信玄は戦に出ると直ぐに良い松の木を見つけ、「旗立の松」として、その松の基に、孫子の旗「風林火山」を建てました。
 四十一歳になった信玄は「姫出産」の知らせを聞いて大変に喜び、ふと眼を転ずると傍らには、大きな松の木がありこれにて戦勝間違いなしとし、「松」と命名するよう伝達する命を発したという。
 つつじが崎屋敷では特に可愛がられ新しい館も建てられいつしか新館の姫と呼ばれるようになったという。

油川夫人

 松姫の母は石和の東、油川に居住する武田源左衛門慰油川信友の娘で油川ご寮人(三十三歳)といわれる人である。17歳のときに信玄の側室に迎えられた。
 側室の中で最も信玄に寵愛されていたとも言われ、仁科氏を継承した盛信や上杉景勝の正室となった菊姫、そして松姫らを産んでいます。

菊姫

朝食イメージ  菊姫は1558年、武田信玄の五女として生まれる。母は油川夫人。同母の兄弟姉妹には仁科盛信や松姫がいる。
 甲越(武田・上杉)同盟締結のあかしとして五大老の一人上杉景勝のもとに嫁ぎ正室となる。

 景勝との間に子はできませんでしたが、夫婦仲はは良好であったようです。婚約が成立したのは景勝と上杉景虎による御館の乱の最中のことであったが、菊姫との婚儀により武田勝頼の支援を得た景勝は御館の乱に勝利し、上杉家の当主になった。

 嫁いだ後は、菊姫は上杉家中から甲州夫人もしくは甲斐御寮人と呼ばれ、質素倹約を奨励した才色兼備の賢夫人として敬愛された。第二代藩主定勝を始めとする後世の歴代藩主たちも、謙信時代は争っていた武田家を丁重に扱ったといわれる。
 武田氏滅亡時に菊姫の縁を頼って上杉家に逃れてきた信玄の七男武田信清(菊姫の異母弟)は、上杉藩主親族の高家衆筆頭として優遇され、幕末まで続いている。
 また、信玄の三女真理姫の孫にあたるという上松義次も、母が信玄の外孫であるとして母ともども上杉家に召抱えられている上杉家中では甲斐御料人と呼ばれ、敬愛されていました。

 なお、「甲陽軍艦」によれば、菊姫は景勝と婚約が成立する以前に、長島一向宗の願証寺の僧と婚約していたとされるが、1574年織田信長によって同寺は焼失、僧は行方不明となり婚約は消滅。

織田信忠

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 弘治元年(1555年)から同3年(1557年)間に、織田信長の長男(信正が実在すれば次男)として尾張国で生まれる。
 実母は久庵慶珠。 乳母は慈徳院。なお濃姫が織田信忠を養子としたという説もある(勢州軍記)。
 幼名は奇妙丸。元服してはじめ勘九郎信重(のぶしげ)を名乗り、のちに信忠と改める。

 永禄年間に織田氏は美濃国において甲斐国の武田領国と接し、東美濃国衆・遠山直廉の娘が信長の養女となり、武田信玄の世子である諏訪勝頼の正室となって、婚姻同盟が成立していた。
 『甲陽軍鑑』に拠れば永禄10年(1567年)11月に勝頼夫人が死去し、武田との同盟関係の補強として信忠と信玄六女・松姫と婚約が成立したという。

 信忠は、父信長からの一目おかれるような戦上手であったとされ、織田軍の数々の合戦で総指揮を取った。 天正10年(1582年)の甲州征伐でも、総大将として美濃・尾張の軍勢5万を率い、徳川家康・北条氏政と共に武田領へと進攻を開始する。信忠は伊那方面から進軍して、信濃南部の武田方の拠点である飯田城・高遠城を次々と攻略する。松姫の兄仁科盛信が城主である高遠城攻略においては自ら搦手口で陣頭に立って堀際に押し寄せ、柵を破り塀の上に登って配下に下知している(『信長公記』巻15)。

 信忠の進撃のあまりの迅速さに、体勢を立て直す余裕すらなく諏訪から撤退した武田勝頼は、できて間もない新府城を焼き捨てて逃亡することになる。
 そして、ついに信忠は度重なる追撃戦により、信長の本隊の武田領内への侵攻前に、武田勝頼・信勝父子を天目山の戦いにて自害に追い込み、武田氏を滅亡させた。松姫にとっては許嫁が兄を殺害したというあまりにも残酷な事実であった。
 この後、本能寺の変が勃発することになる。
 信長の宿所である本能寺を明智光秀が強襲した事を知ると信忠は本能寺へ救援に向かうが、信長自害の知らせを受け、光秀を迎え撃つべく異母弟の津田源三郎(織田源三郎信房)、側近・斎藤利治、京都所司代・村井貞勝らと共に儲君(皇太子)・誠仁親王の居宅である二条新御所(御所の一つ)に移動、信忠は誠仁親王を脱出させると、手回りのわずかな軍兵とともに篭城し、善戦を見せた。
 しかし明智軍の伊勢貞興が攻め寄せると、衆寡敵せずに自刃した。
 介錯は鎌田新介が務め、二条御所の縁の板を剥がさせて自らの遺骸を隠すように命じたという。 逃げられたはずなのに戦死したのは、その勇猛さが災いしたようです。享年26。


武田勝頼

朝食イメージ  松姫にとって勝頼は異母兄にあたる。
 勝頼が武田家の跡目を継いだものの無理な戦いを続け、戦況は思わしくなかった。
 1575年長篠の戦に敗れた武田勝頼 が織田・徳川連合軍に追い詰められると、勝頼は異母弟の仁科盛信を南信濃防衛のために高遠城主に任じた。松姫もまたこの同母兄の盛信と一緒に高遠城に入った。

 武田勝頼は偉大な父・信玄の活躍の影に隠れがちですが、国主となった直後は信玄でさえ攻略できなかった高天神城を陥落させるなど、実は相応の戦略家であったとされています。
 織田信長・徳川家康連合軍との長篠の合戦は、鉄砲と騎馬隊との戦いとして有名ですが、この時代に騎馬隊がなかったことや鉄砲の三段撃ち戦法も本当にあったのかと近年疑問視されている。合戦の内容は江戸時代に相当脚色されているものと考えられます。


仁科盛信

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 松姫の兄にあたる武田二十四将の一人。武田信玄の五男。
 異母兄は、武田義信、武田勝頼です。信玄の死後は、武田家の家督をついだ勝頼に仕え、高遠城主となった。

 織田・徳川軍との長篠の戦い後は、武田から織田勢へ寝返る者や、逃亡する武将も相次ぎ、次第に武田家は衰退していく。そんな状況においても盛信の武田家への忠誠は、揺らぐことは決してなかった。
 甲斐侵攻を進める織田軍は、盛信が守る高遠城へと迫った。
 織田軍の総大将である織田信忠は降伏を促す書状を送ったが、盛信は断る書状をしたため、使者として遣わした僧侶の耳を削ぎ落とし、突き返したといいます。
 織田軍五万に対して、高遠城を守るのは兵はわずかに三千足らずで、その勝敗は誰が見ても歴然としたものだった。織田軍の攻撃が始まると、すでに降伏し寝返った武将の手引きで援軍の得られないなか、盛信は、決死の覚悟で戦いに挑み奮闘します。しかし、多勢に無勢、兵力の差はどうにもならず盛信はついに自刀する。享年二十六歳の生涯を終え、高遠城は落ちました。
 武田家家臣の中で寝返りや逃亡をせず、徹底抗戦したのは盛信だけでした。首のない遺体は農民が探しだして火葬し山に埋葬したので、その山を『五郎山』と呼ばれているようです。



随翁舜ト山和尚


 松姫一行は八王子に逃れ、22歳の時、心源院に随翁舜ト山和尚を訪れ出家する。 天正18年(1590)に自身の庵を持つべく、現在の信松院の地に移り庵を建てた。

北条氏照

朝食イメージ  北条氏康の三男として生まれ、初め武蔵滝山城城主、後に八王子城城主となった。
 天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐の際には徹底抗戦を主張し、居城である八王子城には重臣を置いて守らせ、自身は小田原城に籠もっているが、八王子城は上杉景勝、前田利家に攻略された。
 小田原開城後、秀吉から主戦派と見なされ、7月11日に兄・氏政と共に切腹(自害)を命じられた。享年51才
 北条氏政の弟である氏照は八王子方面の領主であり、松姫一行が落ち着こうとする上案下の金照庵やこの檜原の城も氏照の威令が及んでいる所である。 また武田勝頼の北条夫人は氏政の妹であり、氏政の夫人は勝頼の義姉になっているので、松姫一行は、氏照や平山氏は必ず庇護してくれるものと信じての逃避行であった。

千人同心

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 江戸に入府した徳川家康は、甲武国境の警備を完全なものとするため、多摩の八王子に千人同心を組織した。千人同心は、甲斐武田家の滅亡後に徳川氏によって庇護された武田遺臣を中心に、近在の地侍・豪農などで組織されたという。
 甲州街道の宿場である八王子を拠点としたのは、武田家遺臣を中心に甲斐方面からの侵攻に備えたためである。

 千人同心の配置された多摩郡はとかく徳川の庇護を受けていたので、武州多摩一帯は同心だけでなく農民層にまで徳川恩顧の精神が強かったとされる。
 こういった特性から千人同心の中から後の新選組に参加するものが複数名現れるに至った。千人同心達は武田の旧臣として松姫を心から敬愛し、精神的、経済的に支援を惜しまなかったと伝えられる。遺臣たちにとっても信松尼の存在は象徴的なものであったのかもしれない。

大久保長安

朝食イメージ  大久保長安もかっては武田の家臣だった。天文14年(1545)、武田氏の猿楽師の次男と言われています。もともと武士の身分ではありませんでしたが、武田信玄によって武士に取り立てられ、租税や食糧など主に民政を担当していました。武田家が滅亡した後、その才能を認められて徳川家康の家臣となる。
 
 天正18年(1590)に家康が関東へ国替えとなった時、江戸城を本拠とした家康は、関東の総代官所を八王子に置き総代官には大久保長安を任命した。
 すぐに現地に赴いた長安は、八王子の小門に陣屋を構え(現在の産千代稲荷神社境内)宿場町の建設に着手するとともに、関東十八代官という制度を作り上げた。これは代官頭である長安の手足となる代官を、各方面に配置して、関東一円の治安維持に当らせたのである。

 その後も、財政や交通など活躍は多方面に渡りました。特に石見銀山(現在の島根県)、伊豆金山(現在の静岡県)の奉行、佐渡(現在の新潟県)の代官として、各地の金銀山の増産に成果を挙げ、その才能を発揮した。
 
 先ほど述べたように大久保長安の父は、甲斐武田家の猿楽師であったから、その息子(次男といわれている)である長安から見れば、信玄の娘といえば、まさに遠い雲の上の存在であった。
 その松姫が八王子にいるのを知り、何とか世話をしたいと尋ねたが、松姫の凛とした態度は変わらなかったという。
思いあまった長安は、新たな主君となっている、家康に相談を持ちかけたのである。すると、信玄を尊敬している家康は、即座に同意したという。家康の耳にも、松姫のつつましい日常の暮らしぶりが、好感を持って知らされていたのである。
 こうして長安は松姫のために"信松院"創立に尽力することになるのである。




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