本文へスキップ

高尾通信は高尾山とその周辺を観光、自然、歴史、文学、伝説、グルメに至るまで徹底的に紹介する高尾山総合案内サイトです



高尾山観光ガイドreal estate

西八王子駅近辺の名所・旧跡


信松院

 JR中央線西八王子駅の東,徒歩約15分。武田信玄の四女松姫の開基で,松姫寺とも松姫様とも呼ばれて親しまれている。本堂の西,墓所内のほぼ中央あたりに松姫尼公の墓がある。

 松姫は永禄4年(1561)9月に生まれ、7歳のときに、織田信長の嫡子で当時11歳の信忠と婚約した。しかし、上洛を目指す信玄と、その途上を阻む位置にある徳川家康との関係に緊張感が増す織田信長との関係も悪化し、それはついに元亀3年(1752)に武田・徳川の主力が激突した「三方ヶ原の戦い」が起きるに及んで決定的なものとなり、松姫と奇妙丸との婚約は解消となります。

 翌年、京を目前にして信玄が死去し、武田家は松姫の異母兄勝頼が継いだものの信玄時代の威勢を維持できずに次第に衰退、天正3年(1575)長篠の戦いで織田・徳川の連合軍に完敗し、武田家の劣勢は避けがたいものとなった。 天正10年(1582)、松姫のかつての婚約者である織田信忠を総大将とした織田軍が甲斐に攻め込んできた。勝頼も天目山で自刃し、名門武田家はここに滅亡したのでありました。

 この際、松姫は兄仁科盛信の4才の娘である督姫を連れ、更に途中韮崎の新府城に立ち寄って勝頼の4才になる姫である貞姫と小山田信茂の4才になる姫である香貴姫も伴って更に東に落ち延びます。八王子に逃れ、22歳の時、心源院に随翁舜ト山和尚を訪れ出家し信松尼と称する。信松の信は、信忠からとったとも、父信玄の名前からとったとも、言われているそうです。

 天正18年(1590)に自身の庵を持つべく、大久保長安の援助を得て、現在の信松院の地に移り庵を建てた。以降、信松尼は近在の者たちに養蚕や絹の織物を教え、子どもたちには手習いなどを教えて暮らしました。後世、八王子市が織物の町として発展したのは、この信松尼の存在があったからといわれています。

 武田遺臣等の庇護によって、よく節操を守り元和2(1616)年56才でこの地で没しました。法名は、信松院殿月峰永琴大禅定尼である。墓を囲む玉垣は、没後132年目に千人頭・千人同心らが寄進したもの。

東京都八王子市台町3-18-28
松姫にかかわる物語はこちらへ

千人同心屋敷

 高尾山を目指して車で来られるとき、そう甲州街道、追分町を過ぎ、高尾駅前まで約4キロにわたるいちょう並木が始まってまもなくの頃、このあたりに「千人町」という地名がついているのに気づかれたでしょうか。

 徳川幕府は甲府との境にあった八王子を、関東入国に際して、甲斐・武蔵の国境警備の重要拠点、敵の侵入を阻止する重要な砦と考えました。この警備に武田家の遺臣250人を落城後間もない八王子城下に配したのでした。
 これは、徳川家康が江戸城を築城するにあたり、甲州街道(新宿通り)の突き当たる半蔵門を搦め手門として、もしも城が落ちた場合は半蔵門より甲州街道を一気に走り、八王子から甲府へ落ち延びて再起を図る事を想定していたようです。その時に甲州との国境にあり、重要な逃走路となる八王子周辺の多摩地域に、在郷の武士団を配置して平時より警備にあたらせていたわけです。

 同心屋敷跡の碑は甲州街道と陣場街道が分れる追分町交差点にあるが、この辺り一帯の千人町には十人の千人同心頭や幹部百人の同心に広大な屋敷地と邸宅が与えられた。1789年(寛政1)の屋敷図によると、この場所は千人頭原半左衛門組屋敷があったところのようです。
この碑は、日光市が東照宮境内に千人同心の顕彰碑を建立したことを受けて、昭和35年(1960)に建てられました。菅沼香風の揮毫によるものです。

八王子市千人町 

追分道標

 平成15年6月、甲州街道(国道20号)と陣馬街道の分岐点となっている追分交差点に、江戸時代の道標(どうひょう)が復元された。

 この道標は、1811(文化8)年、江戸で足袋屋を営む商人清八が、高尾山に銅製の五重塔を奉納した記念に、江戸から高尾山までの分岐点に建てた三つのうちの一つだという。(八王子市教育委員会)
清八は高尾山の信者で時には自ら「講」を組織して多くの人を引き連れては高尾山に登拝したという。

 長く追分にあったが、第2次世界大戦中の八王子空襲で破損した為、台座部分は地元町会が、中ほどの約70センチ程の石柱は市郷土資料館が保管していたが、今回、高さ約2・4メートルの石柱の道標を復元するため地元の追分町会の要望を受け、国土交通省相武国道工事事務所が、これら別々に保管してあった部分をあわせて復元した。

甲州街道に面した側面に「甲州道中高尾道」、陣馬街道側には通称の「あんげ道」の文字が彫り込んである。陣馬街道は、和田峠へ登って武州案下へ通じていたことから、案下道ともいわれ、あるいは陣馬山にちなみ陣馬道とも呼ばれてた。
尚、この道標の位置は、道路拡幅などで、元の位置から数メートル動いているという。

了法寺

 八王子七福神でもおなじみの了法寺は、千人町追分交差点よりすぐのところのあります。弁財天を祀っていますが、この木像は、追分の萩原家にあった新吾稲荷より寄贈されたものです。

なぜ、萩原家の弁天がここにということについては、萩原家の姫と金弥という若者の悲恋についてお話しなくてはなりません。
この二人は恋に落ち人目を忍んで逢瀬を楽しみにしておりました。あるとき、姫の父の知るところとなり、怒りに任せた父頼母は、屋敷内のささげ畑の側の榎の下で手打ちにしてしまったのです。
すると、しばらくたって、二人を暖かく見守っていた大森助八の内助の住む家の門の梁に、大きな二匹の蛇がすむようになったのです。この付近でささげを蒔くとその家に祟りがあるといわれていました。

 ところで、この寺のもうひとつの見所は、お岩稲荷です。「あれ、お岩稲荷は、四谷ですよ」とみなさんきっと思われますよね。本堂の右に祠がありますが、これは、間違いなく「お岩稲荷」なんです。

 なんでも、東京四谷のお岩稲荷を分祠したものとか。四谷同様、水商売の方々にとっては、商売繁盛の霊験あらたかとか。そして、お岩稲荷のとなりには、笠間稲荷があり、こちらは「かさ」の病に霊験ありということで、性病予防に強いご利益ありということ。
 

馬場横丁

 甲州街道と交差する西八王子駅東交差点 にある山梨中央銀行のそばに「馬場横丁」の碑があります。

 江戸時代に千人同心専用の馬場訓練場があったので、馬場横丁と呼んでいたようです。千人同心とは、徳川家康が江戸の守りを固めるための守備部隊として配置した部隊。増員を経て千人もの大部隊になり、千人隊とか千人同心とか言われていた。
当初は、馬上・長槍訓練が主として行われたようです。安政2年(1855)には、黒船に備えて西洋式の銃陣訓練が始まり、安政4年には、千人同心も砲術訓練を行おうと銃隊を組織しこの馬場訓練場で砲術訓練も行われたようです。このこともありこの馬場訓練場を「鉄砲馬場」と呼ぶこともあります。

吉祥院

 吉祥院(きちじょういん)は、東京都八王子にある真言宗智山派の寺院である。山号は一乗山、寺号を久松寺と号し、本尊は大日如来である。草創は室町時代の応永年間(1394〜1427)、開基は頼源法印である。吉祥院は、町中にある他の寺とは異なり、丘の上にあります。上り坂の参道を上がっていくと、吉祥院が祀られています。

 寺伝によると、慶長7年(1602年)宝樹房行盛法印によって中興されたとある。徳川八代将軍吉宗による大改革の最中であった享保15年(1730)、大日本帝国憲法が発布された明治22年(1889)と度々の火災により寺勢は振るわず、さらに昭和20年8月2日未明の大空襲で全焼の憂き目に遭うという状況であった。

 もとは日吉町にあったが、昭和20年8月15日、昭和中興第一世義晃僧正は檀徒の信を得て現在地に移転した。見晴らし台からは高尾の山と八王子市内が一望できる。

 吉祥天は別名功徳天とも呼ばれ、鬼子母神の娘といわれ、容貌は天女中の白眉。一説には観音様の化身とも言うが、古来一切のわざわいを転じて、吉祥いわゆるめでたきしるしをもたらすという、副徳自在の女神として信仰されてきた。また毘沙門天の妃といわれている。このため吉祥院では隣に夫とされる毘沙門天、夫妻の子とされる禅?師童子も一緒に安置されている。

 通常七福神には吉祥天は入らないのですが、八王子の“八”に因んで仲間入りをしたということです。

長房町58−3
JR西八王子駅下車徒歩10分
京王バス長房団地富士森高校経由富士森高校下車徒歩3分
西東京バス水無瀬橋下車徒歩5分

宗格院

 馬場横丁の碑から、そこを北へ300mほど進むと左に千人同心に関する文化財を多数持つ、宗格院があります。宗格院の開基開山は元武田家臣山本土佐忠玄の子、价州良天和尚。

 武田氏滅亡後に父忠玄と兄山本忠房が千人同心千人頭となり、八王子に移り住んだことに伴って、散田の興福寺に寓居、文禄2年(1593)にこの地に草庵をおこし、宗格院と称したという。その後、興福寺第6世永雲上人により一寺となし、良介山宗格庵として。その後、本寺第2世国芳を伝法開山として臨済宗から曹洞宗に帰し、興福寺末寺となった。尚、良天は、山本勘助の弟の子孫であると言われています。

 本堂前に大きな千人同心事蹟碑 (千人隊顕彰碑)も建っています。尚、この顕彰碑は当初は、八王子市立第五小学校の裏に昭和16年に立てられたのですが、区画整理や住宅地建設のため、千人同心ゆかりの地であるこの寺へ移設されたものです。また境内には、千人同心事蹟碑と馬場の端にあったお地蔵様も移設されている。宗格院は千人隊の集会所で、維新後には明治政府の事務所にも使われ板垣退助が訪れたこともあるそうだ。ところで、この千人隊という名ですが、千人同心は、長州戦争に備えて千人隊と変わっています。

 この寺には、千人同心組頭(くみがしら)松本斗機蔵の墓(都指定旧跡)や山本・河西・栗沢家墓があります。
松本斗機蔵は三十表一人扶持の小禄同心に過ぎなかったが、天保九年(1838)末、前年の外国船接近に対する幕府の一貫性を欠いた対外政策に対し、幕府に意見書を差し出した。鎖国政策が現状に不得策であるか、海防の充実と外国船打払令の不可なること、穏便な交渉の必要性を強調した。天保十ニ年、その見識を買われて浦賀奉行に抜擢されますが、その寸前に病に倒れ49年の生涯を終えるのです。

 また、この寺の裏庭には「石見土手」があります。この土手は、大久堤防です。天正18年八王子城の陥落で現在の地に移された八王子は、当時、西北を流れる浅川の氾濫に大きな被害が続いていた。
 時の八王子総奉行大久保石見守長安の命により水害防止のため町を囲む壮大な土手が築かれた。上流は千人町、日吉町、元本郷町に、下流いは新町甲州街道沿いに築かれ、土手には竹を植えたという。この土手は、明治の末まで何箇所かでまだ見られたのだが、現在は、この宗格院境内の約60mほどになってしまった。

興岳寺

 宗格院と同じ曹洞宗の寺で文禄元(1592)年の創建。 静かな住宅街にあり道路をはさんで向かいに墓地がある。

 興岳寺の開基は石坂氏の先祖で同家の墓地に石坂弥次衛門義礼の墓と本堂前に義礼の顕彰碑がある。昭和20年8月の戦災で本堂、庫裡一切を焼失したが、再建された。

石坂弥次衛門は最後の日光火の番役だった。
彼は、慶応四(1868)年の3月、前任者の急死により日光勤番に赴いて隊員50人を受け継ぎ、任にあたった。
同閏4月新政府軍(板垣退助ほか)が日光に迫った時、幕軍の大鳥圭介らに謀り、警備の責任者として徳川家の祖廟を官軍に無血で引き渡した。死守すれば東照宮をはじめ一切の建造物は破壊され焼失することは必定と考えた石坂であった。
しかし地元八王子には攘夷派の批判もあり、徳川の霊廟を一戦も交えずに放棄したと責める声を聞き、その軋轢と責任を一人背負い、同月10日、実父の介錯で自刃、60歳の生涯を閉じたという。明治維による千人同心解体前に起きた悲劇である。

 その結果、日光東照宮は焼失することもなくのこり、今日、世界遺産として認められるに至ったのである。貴重な文化財を戦火から救った石坂は静かにこの境内で眠っている。わずか78cmの墓には「源義礼の墓」と刻まれており、一対の石灯籠には建立した千人同心の名前が刻まれているが、良く見るとこの一部が削り取られている。恭順か非恭順か千人同心の中にももそこに自らの名が刻まれることに悩んだものもいるのだろう。

 本堂の前には、大きな顕彰碑が建立されている。 

甲州街道道標

 甲州街道を西八王子から高尾方面に行くと長房団地への大きな道が右手に開けます。この路をすぐ曲がったところに五叉路があります。この西側に二つの石碑が並んで立っています。
 大きい碑には「右 高尾山麓一里半 左 真覚寺」と書かれており、大正3年に立てたとの説明が読み取れます。
小さい碑のほうは、どうやら昭和2年に多摩御陵の造営にあわせて甲州街道が拡張された際の以前の路の記録のようです。この碑によると、もともとは街道は今のように直進したものではなく、直角に曲がった場所があったようです。当時、この拡張工事に携わった方々が、当時の姿を後世に伝えようとこの碑を建てたのでしょうか。

御霊神社

 北野街道の明神橋のバス停で湯殿川を渡ると、村社の御霊(ごりょう)神社があります。付近の方は、「みたま」とも「みたけ」とも言っているようです。
祭神は、鎌倉権五郎景政です。

 境内に立つ由来書では、後三年の役のとき戦況は思わしくなく、戦渦は関東地方、武蔵の国にも波及したそうです。ある秋の節句の日のこと、景政は館の屋形でクツワ虫の鳴き声に聞き惚れていたとき、流れ矢が片方の眼をつらぬきました。
 景政は自らその矢を抜き取り、義家の弟義光の応援を受けて、寺田山で敵を敗退させましたが、その矢傷が原因で死亡することになります。そこで村人たちは、彼を神としてここに祭ることにしました。昔は、旧の11月に神霊の迎い火である焚き火を氏子の各家でたく慣わしがあったということです。

 言い伝えでは館村(いまの館町)では、これを忌み嫌い秋の節句には何もしないそうで、村人たちの目は、景政以後片目が小さいといいます。
御霊(ごりょう)信仰は、御霊(おんりょう=怨霊)信仰とも言われ、御霊神社は、他の御霊社、祇園社と同じく荒ぶる神の鎮魂の儀式の場と考えます。無実の罪や事故により非業の死を遂げた者が、人々に祟りをなす危険な神となったのを鎮めるのがこの信仰の特徴です。
    八王子市館町

浄泉寺

 浄泉寺は戦国時代末期のころ御霊山浄泉寺城と称し近藤砦とも呼ばれていました。

 城主は北条氏の重臣近藤出羽守助実であり、天正初年、助実により築城と伝えられているが、八王子城の砦の役割を担っていたと考えられている。助実は、小田原城攻めの際には八王子城を守っており、前田・上杉の軍勢を相手に勇敢に戦い戦死したとされる。現在は浄泉寺の敷地となっていて、城郭の主要部は墓地となってしまった。
 坂の下の御霊神社も城域に含まれていると言われており、寺よりもむしろ神社周辺の場所に館跡らしさを感じます。いかにも武将の館らしい場所といえる。

 しかし、寺の案内板にはさらに古く、鎌倉権五郎景正の館跡とも記してあった。この2説があるが、詳細は不明。鎌倉権五郎景正は、平安末期に醍醐天皇の系統貴族の子孫。
勇敢な武将として讃えられその景政をまつる神社が寺のすぐ下にあり当時は寺の守護神として建てられた。明治に入り神仏分離によって御霊山を釈尊山と山号を改め、また御霊神社を明神様と称するようになった。

 寺のある八王子市館町の町名は, 従って景政の館があったからとも, 近藤出羽守の館があったからとも伝えられています。
後に獄應儀堅禅師(天正十五年十月十七日寂)が開山。この寺の二世、照鑑圓禅師(慶安1648−1658)は、当時は十石の御朱印を賜っていた名僧でもありました。

真覚寺

 八王子市散田町の住宅街の奥にある真言宗真覚寺は、蛙合戦とアジサイで有名なお寺です。

京王高尾線めじろ台駅から徒歩約10分。またはJR西八王子駅南口から「高尾駅南口」行きバスで約10分。「散田五丁目」停留所で降車。散田小学校と横山中学校の間を通り、小道を左に入ると、正面に見える。

 1411年(応永18)年の創建、津久井の領主永山氏によるものといわれている。寺宝の金銅薬師如来倚像(白鳳時代)は、八王子市の有形文化財に指定されているが、わずか20センチほどの小さな像であるらしい。飛鳥様式をとどめる如来倚像は、八王子市郷土資料館に寄託されている。また梵鐘と鐘楼は万治3年(1660)に八王子千人同心が奉納したといわれる。

 本堂向かって左手の心字池は、三月中旬からお彼岸の頃にかけて産卵のために多数のヒキガエルが集まる。今では少なくなったが、数万匹に及んだともいわれる。「蛙合戦」とは、産卵のため蛙が互に鳴き合いながら、周辺から池に集中するようすや、産卵が始まると、しばしば、十数匹が一かたまりになって池に浮かび、これに多くの雄蛙が飛びつくようすが、合戦に似ていることから名づけられたものです。

 江戸時代には関八州から数万匹の蛙(ヒキガエル)が集まって鳴き声を競った伝えられていましたが、昭和三十九年の生態調査報告によると台町の富士森公園下の畑で、この池から来た蛙が発見されています。 周囲が住宅地となった現在は、かつてほどではないが、まだカエルの姿は見られるという。この蛙の生態と繁殖池とは、八王子市の指定天然記念物となっている。

 境内の鐘楼脇には地蔵尊があるが、これは、江戸時代に甲州街道千人町西にあった地蔵堂から昭和二年の甲州街道改修工事の際、移設されてきたものれたきたもの。
なお、寺の裏手すぐの階段は、万葉公園へと続いている。めじろ台団地北辺の丘陵地を整備して作られた公園で、昭和四六年開園。6月中旬はアジサイが見頃となる。
またこの池の辺にはモミジの樹があり、晩秋には美しい紅葉を見せてくれる。
八王子市散田町5-36-10田町5

高宰神社(たかさいじんじゃ)

 真覚寺の本堂に向かい右手には高宰神社がある。祭神は、昔京都から来た公家が、杉山峠で亡くなったためその場所で埋葬されていたのを山田の廣園寺に移し、その後、正保慶安年間に真覚寺の境内に移し祀られたと伝えられたいます。

 当初、山田の廣園寺境内にあってときは小蔵主(おくらぬし)明神と称していたようです。亡くなった公家というのは、萬里小路信房卿かあるいはその子の藤房卿ではと言われていますが、詳しいことはわかっていないようです。

 南北朝時代に検非違使別当を務めていた藤房卿は、後醍醐天皇の功労者へ与える恩賞が、不公平であり、公共事業に対し多額の追徴を行うなどして、人民の心が朝廷から離れ、このままでは謀反の企みが起こりうるとして、諫言を行ったといいます。
 しかし、天皇に彼の心は伝わらないばかりか、側近連中の悪辣な中傷を買うことになります。世をはかなんだ藤房卿は遁世するのでした。藤房卿の父、信房卿は、わが子を尋ね諸国を歩くのですが、その行方を知ることはできませんでしたと太平記にはあります。

 廣園寺から移設された後は、地元の並木町を始め、千人町、散田町、めじろ台の4町会の氏神様になったが、特に江戸時代には、千人同心の信仰が厚く、梵鐘も鋳物師加藤吉重の作である。境内にある田の神は表情豊かで見ていて楽しい神様だ。

龍見寺

 曹洞宗 光輝山 龍見寺は、栃木県大平町の大中寺の末寺。
慶長3年(1598)に大中寺から迎えられた天南正薫禅師が、開山。

鎌倉時代,龍見寺の辺りには武士団「横山党」が住んでいたと 伝えられています。 前九年の役(1062年)に源頼義(みなもとのよりよし)に 従って奥州征伐に参加、出羽(現在の山形・秋田県)にいった横山経兼が,出羽三山のひとつ湯殿山から 大日如来像(藤原時代末期1100年頃の作と思われる)を拝領して,館に大日堂を建立しました。 すると、この大日如来は、龍見寺開山の500年前からここにあったことになる。
現在,高台には大日堂が建ち、安置されている大日如来像は東京都の有形文化財になっています。
 ここを流れる川を湯殿川と呼んだのは、湯殿山にちなんでのこと。
 また,大日堂の下の湧水 が湯殿川の水源と言われていました。

廣園寺(こうおんじ

 京王線山田駅に近い廣園寺(こうおんじ)は、なだらかな南斜面に広がる境内には総門、山門、仏殿、本堂、等が一直線に並び、鎌倉の建長寺のような、典型的な禅宗の伽藍配置をしています。兜率山伝法院と号し、臨済禅宗京都南禅寺末の別格本山格のお寺です。

 創建は、新編武蔵風土記稿によると、慶応2年(1390)で、開山は塩山向獄寺開山抜隊得勝(1327−87)に師事した峻翁令山和尚と伝えられている。開基は寺伝によれば大江備中守師親であるというが、他説には片倉城主長井道広であるともいい、詳細は明らかではないらしい。関東管領足利満兼が壇越となり300町歩の土地を寄進したというが詳かではない。1405年(応永12年)に禅書「無門関」が刊行されたことでも知られている。。一般には「山田の本坊」の名で知られています。

 天正18年(1590)6月の豊臣秀吉の小田原攻めの際には豊臣方の八王子城攻めの巻き添えとなり、兵火に遭って堂塔伽藍は、すべて消失諸堂は消失したが、1591年(天正19年)には徳川家康によって15石の朱印を受け、再興を命じられたという。この伽藍こそは当時の幽玄の美を極めたものであったという。
また、その他現在残る建物も寛政4年(1792)に放火により消失しており江戸後期に再建されたものが多い。江戸期には永明院、同証院など塔中山内49寺、末寺は100を超えたという。
 廣園寺建造物群として、総門・山門・仏殿・鐘楼(附銅鐘)の4棟が都指定有形文化財に指定されています。
また樹齢230年といわれるしだれ桜は、一名を見性桜(けんしょうざくら)といい、桜の華麗さを知り自己の本性を知るという意味がある。

京王線山田駅から徒歩約7分。または京王八王子駅・JR八王子駅北口から「山田駅経由法政大学」「山田駅経由上大船」「山田駅経由家政学院」行きバスで「山田」下車徒歩約5分。

興福寺

 散田町から高尾駅へ続くけやき通りの八王子市立陵南中の交差点を南へ200m程のところに聚林山千光院興福寺がある。

 興福寺の開基は、関東十八番代官の一人といわれる雨宮勘兵衛の祖先である雨宮秀徳とされている。創建は天正8年(1580)。武相第23番札所。

 寺の入り口にある枝垂桜は見事です。寺の入口だけにお弁当を広げてお花見というわけにはいきませんが、ほんとうに圧巻です。
 山門は近くに屋敷があった関東十八代官の一人である設楽(したら)家の門を、江戸に移る際に移転したもので、「横木(よこぎ)の門」と呼ばれています。くすのきの大木を横に切りそれを柱として加工したところからこの名がついており、関東では唯一のものとされています。
 墓地には,設楽家ゆかりの宝篋印塔(ほうきょういんとう)や千人同心頭河野家や中村家のほか数名の同心の墓があります。
八王子市東浅川町754