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高尾山の文学・伝説・民話real estate

八王子城落城伝説

   豊臣勢の八王子城攻めは、熾烈を極めたといわれる。
豊臣勢は歴戦の強者揃いであり完全武装の大軍団であったのに対し、城方は小数の武士と緊急に徴兵されてきた近隣の僧や農民はては女子どもであったという。一日で落城したというのも頷け、その落城にまつわる惨劇をより一層悲しいものとする。 

 熾烈を極めた合戦は、ここかしこに死体を積み上げ、その血はふもとの川へ下った。

 ご主殿の滝には自刃した城方の武将達の妻や子ども、行き場を失ったにわか歩兵の農民たちが次々と身を投げた。そのため城山川は、血で真っ赤に染まり、この水で麓の里人達が米を炊くと赤く染まったという。

 悲運に散っていった先祖の供養のためにとこの里では落城の日、あずきの汁で米をたき「あかまんま(赤飯)」のならわしを続けてきた。

 城山川には蛭が多い。そもそもこのような澄み切った川に蛭がいるとは考えづらいのだがこれは壮絶な最期を遂げた兵士の血が化身したものといわれている。

城山近辺のくもは子持ちのくもが多い。これも、ご主殿の滝へ子どもを抱え飛び込ん武将の妻達の霊魂が化身したものだと言い伝えれれている。

城山川の蛭

 八王子城の攻防は、それはもう熾烈を極めたと言われている。

 八王子城落城の際には、城を守っていた勇敢な将兵はそのほとんどは、最後まで降伏することなく、まさに武士として果敢に戦って散っていたのでした。そして、この城の周りを流れる城山川は、その屍からどくどくと流れる鮮血で、三日三晩真っ赤に染まっていたといわれる。
ところで、里の村人がその流れる血の流れを見ていると、糸のように細々と赤く流れる血が所々で切れるとそこから見る見るうちに赤く太い「蛭」(ひる)となって泳いでいったという。

 蛭というのは、よどんだ川に棲むのでだが、少なくとも城山川は、実はそれまで流れも清らかで、蛭など見た者はいない川だった。しかし、この八王子城落城のその日から、異様に蛭が多くなったといわれる。ところが、その蛭は、どんなに里の村人が、日頃、城山川で洗い物をしても川の底の方でじっとしているだけで決して吸い付かなかったという。本当であれば、人間のおいしい血をいただけるのだから、腕や足が川に入ってくれば、たちどころに集まるはずなのに。

 ある時、越後の商人がやってきて、たまたま城山川で足を洗おうと川に入ったところ突然その異変は起こった。足を川に踏み入れるや否やあちらこちらから、あれよあれよという間に、両足にみるも無惨なほどに真っ黒になるように蛭が吸い付き、かわいそうなくらいに赤黒く腫れあがり、もうとてもじゃないが、一歩も歩けない状態にまでなtっという。

 どうやら里の村人の話では、城山川の蛭は里の者や南の者には決して吸い付かないが、北の者、そう八王子城を滅ぼした加賀の前田や越後の上杉、信濃の真田にゆかりの者には、川中の蛭が食らいつて行くということだ。
無念な最後を遂げた将兵たちの怨念は今も城山川の川底で、北の者がやってくるのを拒んでいるのだろうか。

 あの無念の蛭たちは、今も川の底で、じっと北の者がやってくるのを待っているのです。

淀み川<

 八王子城には、勇猛果敢で知られる近藤出羽守という武将がいて、この末姫に布衣という17歳の美しい姫がいたという。

 八王子城が、攻められたとき出羽守は北条家の出城である下野国の榎本城を守り、留守にしていたのですが、美しいながらも気丈な布衣姫は、留守を守る家人といっしょになぎなたをふるって戦ったといいます。
しかしながら、次々に攻めてくる敵の軍団の前には、多勢に無勢、所詮、女の腕で長くもちこたえることはできず、とうとう姫も深手を負ってしまいました。加えて、燃える館の火の粉を浴びて、その美しい顔も体も焼けただれ、ふためと見れぬ醜い姿となってしまいました。

 もはやこれまでと覚悟を決めた姫は、御霊川に身を投げようとふと自分の姿を見ると、なんとも川の水面に、我が顔が醜く写ってうごめいているではいるではないですか。
耳元では、決戦の雄たけびが聞こえているが、御霊の川は戦いとはうらはらにいつもながらの清らかな流れを見せていた。ふとこれまでのあのやさしかった父との楽しかった思い出が頭を走馬灯のように横切り、しばし戦火を忘れ佇むのでした。ああ、こんな戦さがなんで始まったのだろうか。誰が始めたのか。自分は何のためにここまで戦ってきたのだろうか。
平和だった日々は、自分にはもう帰ってはこない。ここで屍となるのみ。
もはやこれまでか。

 ふと、姫は我にかえった。しかし、敵にこの醜い姿だけはさらけだしたくはない。それが女としての最後のかなわぬ望みだった。姫は御霊の宮に向かって祈願し、川に身を投じた。すると不思議なことに今まであれほどに清らかな流れを見せていた御霊の川がたちまち淀んできたではないか。そして姫の屍を包み隠してしまった。

 今でもこの川は御霊の宮の社の前を通る頃は清らかに流れているが、それ以外のところではにごった淀み川になるそうです。後に里人はこの川を湯殿川と呼んだと言うことですが、これは「淀み川」の音が変わったものと言われています。

片袖塚

 八王子城が落城したとき、炎とともに燃えちぎられた片袖が飛んでいくのが見えたそうだ。

この片袖の主は、城主氏照の側室であるお豊の方のものだった。今は遠く離れた小田原の地で戦っているであろう氏照を慕い思う心が袖となり、戦地の彼のもとへ飛んでいったのだろうと言われている。

 ところでこの片袖、実は小田原までは飛んでいかなかったといわれる。
小山田の山崎というところにある孝養寺というところにひらひらと落ちたそうだ。

 里のものがこの空から飛んできた片袖を珍しがって集まってきたところなんとこの片袖が、「よよよよっ」と泣き始めたと言います。
里の者は気味悪がったものの何か因縁を感じ、供養のため塚をこしらえねんごろにこの片袖を供養し土を盛ってみました。
しかし、やはり哀れな声で夜な夜な泣く声が聞こえてくる。里の者が困り果てているとそこを旅の坊さんが通りがかった。里の者からこの話を聞き、塚に埋まっている片袖がかわいそうだと読経をはじめたところ塚が揺れ、中から片袖がでてきた。するとその片袖は空に舞い上がりしばらくくるくると揺れていたが、南に向かって飛び去っていったという。

  里の人は片袖を見送り、その姿が見えなくなるまで合掌していたという。おそらくは坊さんの法力をかりて片袖は小田原城まで飛んでいくことできたのでしょう。塚はゆっくりと崩れだしもとの姿にもどったといいます。きっとこの片袖、恋する人のもとに彼女の気持ちを届けてくれたことでしょう。合掌。

子負い蜘蛛

 氏照の側室でご主殿の乾の館に住んでいたお豊の方は、奥方のお比佐の方をそれは姉のように慕っていたと言います。

 お比佐の方は大変信仰が厚くとくに観音様を崇めていたので自然にお豊の方もお比佐の方にならって信心されたといいます。

 お豊の方はもともとのびのびと育ってきたのですが、しだいに小さな命も大切に思われるようになり、ある時植木職人が庭の菊に巣をかけたのを見て取り払い踏みつぶそうとしたのを殺生をせぬようにと庭の奥に逃がしてやったことなどがありました。

 さて、八王子城落城の折りには、お豊の方は幼い若君を抱いて城から落ち延びようと試みましたが、迫りくる敵兵の前にもはや絶望的となりました。そして、これまでとお豊の方は、覚悟を決め、ご主殿の滝にしっかりと若君を抱いて身を投げたのです。

 いま城山川の近辺ではその草むらに子負いの蜘蛛を見つけることができます。これは、お豊の方が若君をしっかり抱いて守っている姿だと言い伝えられています。そして村の人たちは、この蜘蛛を見つけても決して殺したりせず、静かに見守っているのです。

五人比丘尼塚

 下長房の中郷には、5箇所の比丘尼塚がったそうです。八王子城合戦の際、ようやく城から脱出した五人の比丘尼は、この中郷の付近で、前田軍の寄せ手にとうとう捕らえられてしまったのです。
 前田の軍に取り囲まれ、これから軍勢を城内に侵攻させるにあたり、中の様子がなんとしてでも知りたかった彼らは、捕らえたこの比丘尼達に「城内の様子を教えてくれれば命だけは助けてやろう」と迫ったのでした。

 しかし、武士ではないとはいえ、八王子方の比丘尼達は、頑として口をわらず、城方に忠節をつくすのでした。前田の兵は、そのあまりのかたくなさに、ごうを煮やして、とうとうこの5人を切りすててしまったのです。里の寺の住職は、これを不憫に思い、塚をつくりねんごろに供養したといいます。

 しかし、それからというもの、この付近では、この5人の比丘尼の変わり果てた姿を見たという人が現れたり、奇怪な現象が続き、「祟りヶ原」と呼ばれるようになったといいます。

 それから数十年がたち、人々もあの悲惨な合戦も5人の比丘尼のことを忘れかけていた頃、南浅川の地主が、こんな土地を遊ばせておくのは、もったいないと塚を壊し、畑にしようと鍬を入れたところ、その鍬に、白昼、ぴかっ、どかーーーんと雷が鳴り響き、その地主は命を落としてしまったそうだ。

 八王子城の落城のおりは、それはそれは大勢の死者がでたといい、城の下を流れる城山川は、本来は清らかな流れをたたえているのに落城の後は、三日三晩、流れる血で真っ赤に染まったといいます。

 やがて月日が流れ、この城山川にももとの清流が戻り、里の者たちは、この川で米をとぎ飯を炊き始めました。ところが釜からでてきた炊きあがった飯は、どれもこれもみんな真っ赤なあかまんまなのです。なんどといで炊き直してもあかまんまなのです。

 城で討ち死にした武将やご主殿の滝に身を投げた女、子供の悲しい血の思いがこもってこんな飯にしてしまうのだろう。里の者はよりあって考え供養のため赤飯を炊いてみることにした。するとそれからは城山川の水で米をといでも赤くならなくなったという。いまでもこの里では落城の6月23日になると赤まんまで供養をする風習が残っているという。

恨み古井戸

 八王子城が落城したとき、城の守りはほんとうにごくわずかだった。なぜなら城主である北条氏照は、精鋭を集めて小田原城へ参戦していたので、留守は城代の横地監物景信や老臣の中山勘解由、狩野入道、井上出羽たちであった。城の将兵はというと、いざ城の危急のときと城の周りから駆けつけた農民や神官、山伏など約2000名たらずだったという。

 しかし2000名とはいえ、八王子城は、鉄壁の守りを備えた城で、そうやすやすと敵の手に落ちるはずもない。それがこうもやすやすと落城を迎えたのは、落城の朝は非常に霧が立ちこめていたので、この霧に紛れた攻め込んできた敵の姿を発見できなかったのだといわれている。
 八王子城への攻撃開始は、丑の下刻(午前2〜3時)とするもの(『北条氏照軍記』)、夜八ツ時(午前1〜3時)とするもの(『桑都日記』)があるが、夜も明けぬ深夜・早朝だったのは間違いないだろう。まさに、味方の兵すらおぼろげに見えるような状況だったという(『茶道太閤記』)。そして、丑刻には早くも町(根小屋)を押し破ったが、城内ではこの様子にまったく気付かなかったのだ。
 確かに霧がなかったら、敵の動きを察知してもっと早くに城の体制を固められただろうにと本当に恨みの深い霧だ。
 今でも6月23日の落城の日がくると本丸跡の古井戸から霧が立ちのぼってくるのが見えるそうだ。そしてよく耳をすますとその霧の中に恨めしい城兵のうめき声が聞こえるという。


おはらい四郎兵

 八王子城内には、自慢話ばかりしてお祓いのまねごとをする行者がいたが、全く誰にも相手にされず「おはらい四郎兵」と呼ばれていた。あまりにほらばかり吹くのでまわりの者は、次第に迷惑がっていったが、老中の中山勘解由だけは、「陣貝吹きだけに、ほらもふくさ。いいではないか、吹かせておけ」とかばってくれていた。

 さて、 6月23日、八王子城が、大軍に攻め入れられわずか一日で落城し、上杉軍の陣貝が誇らしげに鳴り渡っていた。城の中では、大半の兵が討ち死にし、誰も陣貝をふくものはいなかった。ところが突然、本丸あたりからぼー、ぼー、ぼーとお城の勢いを取り返せと言わんばかりに法螺貝が鳴り響きだしたではないか。

 寄せての軍が、本丸を攻めていくとこんどは別のところから、ぼー、ぼー、ぼー。そこへめがけて攻め入るとまたべつのところからぼー、ぼー、ぼー。いせいのよい法螺貝の音にとうとう攻め入った軍勢は、同士討ちを始めてしまった。この法螺貝は3日3晩、鳴り響きついに消えてしまったとか。

 のちの話では、この法螺貝を吹いていたのは確かに四郎兵だったという者があらわれた。しかし四郎兵はとっくに討ち死にしたはずだった。法螺貝吹きとしてのお役目を霊魂となって吹きまくったのだろうと言われている。

笛の彦兵衛

 八王子城が落城の時のことです。城には「笛の彦兵衛」と呼ばれた笛の名手で浅尾彦兵衛という武将がいたといいます。城主北条氏照は、もともと文武ともに優れた武将で、彦兵衛は氏照の笛の相手をしていたのです。二人の笛の音は、戦国のすさんだ中にあり、さわやかでもあり、またこの後起きるであろう悲劇を予感してか、なにか物悲しくもあったといいます。

 八王子城落城の際、彦兵衛は、今まさに燃え落ちんとする本丸で、遠く小田原城で戦っている城主北条氏照に届けといわんばかりにこれが今生の別れと彼の吹く笛はいつまでも響き続けたといいます。

 さて、八王子城の落城後、二十三夜がくるとその静まり返った城の跡から悲しげな笛の音が聞こえてくるといいます。里の者は「二十三夜の笛」としてこの物悲しい音色に耳を傾けたといいます。この笛の音を聞くことができると、その者は悲しみや苦しみを必ず克服して、幸せになれるというのです。

片目の山乙魚

 八王子落城により、籠城した八王子城方の者は、そのほとんどが落城とともに命を落としたといわれています。しかし、その中にあって、城代であった横地監物景信は、北条家の再興をはかり、密かに抜け道を通り城から脱出したという伝えがあります。

 城山の尾根づたいにほんの少数の従者を連れて西の峰まで来たときのことです。既に行く手には敵の陣営がどっかと脱出する城兵を捕まえようと待ちかまえていたのです。

多勢に無勢、いくつかの陣営を突破したものの次から次へと敵から雨のような矢が放たれてきます。刀でその降り注ぐ矢を払いのけ払いのけ馬を進ませていましたが、ついにその一本の矢が横地監物の片目に命中してしまいました。その矢をぐっと引き抜いて、まだ進もうとしたところ今度は乗っていた馬が、足下の藤のつるに足を絡ませてしまし横地監物は馬もろとも谷底へ転げ落ちてしまいました。

 その時彼は、谷の藤づるをどっかと睨み「憎き藤づる、この後は、この谷へ藤づるは、生えさせまいぞ」と叫けびそのまま谷の淵で息を絶えました。これ以降、藤づるは今も生えないと言われています。土地の人はこの淵を「景信ケ淵」と呼びました。

 それにしても不思議なことにこの淵にはたくさんの山乙魚がいるのですが、すべて片目だそうです。また、景信ケ淵の山乙魚は、簡単に釣れるそうですが、これを食べるとよくないことが起きるとして土地の人は決して食べないそうです。

影武者景信

 八王子には、八王子城落城の際、城代であった横地監物景信は、実は城で討ち死にしたのではなく、再起をかけて隠密裏に城から脱出したとの語り伝えが数多く残っている。そのひとつに檜原村方面へと逃れたという話がある。そのさい、景信は、敵方の追っ手を欺くべく側近の5人の部下達をそれぞれ影武者にしたて5つの方面へ散らせたという。
その後影武者達がどうなったのか知るすべはないが、たったひとつ語り伝えが残っている物がある。

 五日市村の北寒寺というところで、落人狩に捕らえられた影武者景信がいたそうだ。
武将達の前に引き吊り出されたその姿は、どう見ても70は過ぎているような老武者だったそうだ。「なんとこんなよぼよぼの老人が景信であるはずがない。景信もあきれはてたものだ。こんな年寄りまで影武者として使うとは。頼みにする者も少なかったのだろうて。」と武将達はあきれ果て、散々好きなことを言い合っていた。
するとその老武者はかっと目を見開き「我こそは横地監物景信なり」と名乗った。

 やれやれとあきれてはいたものの、あまりの威厳のよさに武将達もややあらたまった態度で「それではそなたに聞こうではないか。横地監物景信どのは、50の賀を迎えられたと聞いたが、そなたはどう見ても20才は年老いているように見える。そなたは影武者であろう。」

 ところがそういわれても「我こそは横地監物景信なり。」といって言い張るではないか。武将達は「それではその証拠をみせよ。」と詰め寄ると、この老武者は、きっと睨み付け「この度の負け戦は、残念至極。この思いは本人以外に計り知れぬはず。無念のあまり、20も年を老いてしまった。これこそが景信本人である証拠よ。」と答えた。

 武将はなるほど見事な言い分とおおきく頷き「景信として処断する。」と言い渡し首をはねたそうだ。首を打たれるときこの老武者は、いかにも自分の仕事を達成したかのように満足な笑みを浮かべたそうだ。
この間に真の景信は落ち延びたという。

天駆ける小太郎

 さて、八王子城落城の知らせを小田原の本城に届ける役目を負ったのが、常磐対馬という者だった。彼は「馬の常磐」と呼ばれるほどの城内でも特に馬術に長けた武士であり、彼に頼るしかなかった。

 さて、八王子城は寄せての大軍に攻め立てられ、落城も時間の問題。
もはやこれまでと思われたとき、老臣の中山勘解由は、この対馬に「落城のありさまを小田原におられる殿にご報告せよ」と命じたのだった。

 なぜならば、こうやって八王子城が、攻められているとき城主の北条氏照は、実は小田原城に応援に駆けつけており、城を留守にしていたのだった。事情を理解し、その大役を感じた対馬は、それを受けるや否や馬をはっと引き出すとまさに両軍の刃が交差する中をさっそうと駆け抜けようとした。

 しかし、そんな城の動きは敵にもすぐわかるものだ。敵の大軍は、城から出てきたこの対馬が、小田原へ向かうものだとすぐに気がついた。すぐさま対馬を取り囲み、なんと一斉に鉄砲を放ったのだった。無残!これほどの鉄砲の一斉攻撃には、いかなる馬の常盤の馬さばきでもかなわない。体に無数の弾を浴びて血だるまになりながら馬ごと倒されてしまった。

 この知らせが中山勘解由のところに届いた。「もはや知らせも届かぬか」と勘解由は思案しようとしたところ「その役目、この私に。」という声が後ろでした。見ると対馬の一子、小太郎であった。精悍な小太郎ではあるが、いかにも大役。また、あれほどの対馬ですら突破できなかったこの戦火の中を、その子とはいえそれができるだろうか。しかし、他に頼むものもいない。

 考えあぐねて、勘解由は決断した。「よし、頼もう。」これを聞きにっこりと微笑むやきりっとした顔立ちとなり「父に成り代わり必ずやこの大役を務めさせていただきましょうや。」と答えた。
小太郎は、馬に駆け登ると門を開き駆け出していった。

 しかし、運命は小太郎にも味方しなかった。先ほどからの動きを察していた外の大軍は、飛んで火にいる夏の虫とばかりに、一斉に鉄砲を放ったのでした。ああ。無残、父と同じく小太郎も無念にもその場に無数の弾を受け、うち倒されてしまったのです。 ところが、驚くべきことが目の前でおこったのです。

 小太郎と馬がむっくと立ち上がり、あれよあれよと敵味方が驚く間もなく、そのまま天高く舞い上がっていったのです。「おお小太郎が天に登っていく」「天馬が駆ける。」かくして小太郎は南へ南へそして小田原城へついたのです。

 小田原城の記録には、「若武者一騎、八王子城よりの使者。落城のさまを報告せり。その名を常磐小太郎」と記されているそうです。

熊野神社のこいし木

 JR高尾駅北口より西八王子方面へ甲州街道にそって6〜7分ほどいくと木々でうっそうとした薄暗い境内が見つかる。これが熊野神社だ。旧来より鎮守の森として住民から親しまれてきたが、神社縁起によれば、その昔諸国行脚の旅をしてここまでたどり着いた老夫婦が、紀州和歌山の熊野大社を奉斉したとのこと。その後、天正元年に北条氏照が再建したこれにいたったとか。社殿左側にはご神木があるが、風邪除け、長寿の木として地元に崇拝されている。

 さて、ここ熊野神社には八王子城の恋人達にまつわるお話があります。今から400年前、八王子城主 北条氏照の家臣、篠村左近之助に安寧姫という美しい娘がいたそうです。氏照は、この娘をたいそう可愛がり、城下の月夜峰で催される宴にはいつもそばにおいていました。

 氏照は笛の名手でもありましたが、この氏照に笛の指南をしたのが、浅尾彦兵衛清範で「笛の彦兵衛」と呼ばれた名手でした。
宴では、よく獅子舞が演じられ、その中にひときは上手に笛を吹く狭間の郷士の息子という若者がおりました。彼は、浅尾彦兵衛清範がある時宴に出られなくなったおり氏照に自分の替わりを務められるものとして推挙した自分の一番弟子の若者で、名を狭間の隼人といいました。

 氏照は、その才能にすっかり惚れ込んでしまい、この若者を宴に呼んでは笛の音を楽しむのでした。そんなわけでしたから安寧姫とこの若者はしばしば宴の席で顔を合わせることになり、いつしか恋が芽生えるようになりました。

 そして、この熊野の森で逢瀬を重ねていたといいます。その折り二人は小石と小石を堅く結んで境内にあった樫のご神木の根元に納めたといいます。小石と恋しをかけた語呂合わせとも言うべきものでしたが、その甲斐あってか二人は結ばれたのでした。

 しかし、八王子城が落城のおり、狭間の隼人は、敵陣に果敢に乗り込み見事に討死に、安寧姫も燃え落ちる楼閣で一人琴をひき続け隼人を偲びながらなくなったといいます。

 その後、不思議なことにこの熊野の樫の木には欅の木が宿り、二つの木が寄り添うように合体して大きく育っていきました。地元ではこの木を縁結びの木といってこの木の根元に自分の名前と恋しい人の名前を書いた小石を二つ並べておくとその願いがかなうといいます。

 二人の付き合いにどんなに反対していた親もいつしか和やかな気持ちに包まれ二人の仲を許してしまうだといいます。きっとあの二人が恋の行方を見守っていてくれるのでしょう。恋するあなた、ここはひとつ小石に願いをたくしてみませんか........




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