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高尾山歴史ガイドreal estate

高尾山の歴史



奈良時代(高尾山の縁起)

 高尾山と言えば、薬王院との関係を見逃せません。薬王院は、正式の名称は高尾山薬王院有喜寺といい、真言宗智山派の大本山で成田山新勝寺、川崎大師平間寺とともに、関東の三大本山として広く知られ多くの信者や観光客またハイキング客で四季を通じにぎわいをみせています。

 高尾山薬王院には、四天王を安置した総桧造りの勇壮な山門、仁王門、本堂、本社、大師堂、不動堂、奥之院、大本坊等がありその多くが東京都の指定文化財になっています。 そして、本尊の薬師如来・飯縄権現・不動明王の三尊が一体となって形成された霊場となっている。

 さて、この高尾山、高尾山縁起によれば、ここを開いたのは遠く聖武天皇の時代にさかのぼるらしい。植田孟縉ほかにより編纂された『新編武蔵風土記稿』によれば、「行基大士が手ずから薬王の像を彫り、寺の名を有喜、院の名を薬王としたが歴年の後荒廃した」とあります。

 この時代は、日本古代史の中で最も華やかな奈良時代であり、奈良の都には東大寺の大佛殿などが造営され、日本全国六十余州の各々の国には、国分寺が建立された。

 真言宗智山派大本山である高尾山薬王院は、奈良時代の天平十六年(744)に聖武天皇の勅命を受け、東大寺大仏の建立の悲願のため諸国に国分寺造営を命じた天皇の願いを達成すべく薬師の像を刻んだ行基菩薩が東国鎮護の祈願寺として、道を開いたと言われている。

 さて、この行基は、奈良時代の僧で和泉の人。俗姓、高志氏。道昭・義淵らに法相数学を学び、のちに諸国をめぐり、架橋・築堤などの社会事業を行い、民衆を教化し行基菩薩と敬われた。また最古の日本総図を作ったとも伝えられている。

 しかし本当に行基が、高尾山に登ったかどうかは疑問視する人も多い というのも歴史をひもとくと行基は76歳で来たことになるのだが、行基は幾内をほとんど出なか ったいわれている。それにしても全国に行基伝説が残っているのは、堤や橋など庶民生活に与えた 影響が大きかったためでしょう。なお、薬王院の名は創建当初、御本尊薬師如来を安置したことに由来します。

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南北朝時代(俊源の入山)

 高尾山を語るときは、行基や弘法よりもこの俊源の名を一番にあげなくてはいけない。しかし、俊源は、京都醍醐の俊盛法師の弟子とされるだけで、その出身などは明らかではない。永和年間(1375〜78)に、京都の醍醐山から俊源大徳が入山し、不動明王を祈念して、八千枚の護摩供秘法を厳修、それにより一山の守護神として飯縄権現を奉祀し、中興したと伝えられる。つまり薬王院では俊源を中興の祖としているわけです。


 さて、俊源については以下のような言い伝えがある。
修行の後の疲れから思わず寝入った時、枕元に阿遮羅明王現れ「我が姿を彫刻し、あまねく群生に施せよ」と伝えたという。俊源は、この姿を具象化しようと念願したがなかなか思うように果たせなかった。 するとそこに異様な者が来て、自分が替わりに彫刻してやろうといい、山奥に籠もること7日、再 び現れ俊源に像を手渡し消えたという。あまりに「威霊赫赫」とした正視に耐えぬ出来映えだった ので、俊源はこれを山頂に祠を建てて安置したという。これが今の「奥の院」であり、俊源はこれ を「飯綱権現」として高尾の鎮守としたという。 この飯縄権現は信州長野の飯縄山を中心に、修験道と稲荷信仰の習合した密教系の信仰形態で、東日本に多く分布して薬王院が最も著名とされる。

 以降、高尾山薬王院は、薬師信仰とともに飯縄信仰の霊山となり、醍醐派(当山派)の修験道場として、隆盛を極めて行くのでした。

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戦国時代(飯綱権現の信仰)

 飯綱権現は不動明王の化身であると高尾山縁起は書いている。

 不動明王は大日如来を本地とする 化身である。高尾山の本尊は大日如来であるから不動は従者であり、そして飯綱はその変身だ。大日如来が憤怒の形相に変化したもので、これを主尊とする加持祈祷こそ修験道では最も重要な修法とされるから、飯縄権現と同時に祭られたのであろう。

 飯縄大権現は不動明王の化身であり、その本誓は、(一)向背に火焔を負い、左右の御手に剣と索とを持てるは不動明王の御本誓を現し、悪魔を退治し、慈悲の智慧を以て種々の煩悩病苦を焼き尽くす、(二)歓喜天の心を抱きて求る所の利益を施す、(三)鴟啄と羽翼ある鳥の姿は迦楼羅天の飛行自在の徳を表す、(四)白狐に乗って茶枳尼天の福を授く、(五)白蛇を頂くは宇賀神の宝珠を、弁財天の愛嬌を与え給う、の五相合体です。飯縄権現をその始まりとすれば高尾山薬王院の成立は室町時代の初期とみなすこともできる。

 いずれにせよ、この変り不動の飯縄権現は戦国武将の守護神として崇敬された。飯縄信仰は、伊藤忠綱やその子盛綱が“飯縄の法”を確立し自ら千日太夫と称し全国に広めたといわれ、全盛期は室町戦国時代。金閣寺を建立するなど足利幕府の黄金期を築いた三代将軍義満が紫金仏の地蔵菩薩像を飯縄山の本地仏として寄進したほか、上杉謙信は兜の前立てに飯縄明神像を使い、武田信玄も甲州に勧請、持仏として身に付けていたと言われている。

 このように不動信仰は特に室町、戦国 時代の武将達に歓迎されたらしく、小田原北条氏の勢力が武蔵国に侵攻する頃には高尾山は武家信仰の山として有名になっていった。  

 応仁元年に始まる応仁の乱は、上は将軍家から守護代、下は土豪地侍に至るまで、およそ11年間にわたる乱世です。この戦乱でそれまでの守護大名が没落し、天下統一を旗印とした戦国大名 が割拠する戦国時代を迎えるわけです。ここで、伊豆から相模、武蔵へと領土を拡張し、小田原 を根拠としてさらに勢力を拡大し、関東一円を制覇しようとする伊豆の戦国武将三代目北条氏康が登場してくるわけです。


北条氏の政策

 氏康は享禄3年(1530)、武蔵小沢原の合戦に16才で初陣する。
以後、所沢の合戦、川越 の合戦、国府台の合戦に出陣し、天文10年(1541)、父の氏綱の死によって北条家の家督を相続する。このとき氏康は27才であったという。氏康は川越の夜討で扇谷上杉を殲滅させ、これにより滝山城の大石氏、天神山城の藤田氏らが氏康に下り、北条氏の勢力は一気に北武蔵を完全制圧したことになる。                                    
 駿河今川の没落により東海道の治安が悪化、御殿場口の閉鎖により富士登山の道は閉ざされてしまった。これに対応したのが北条氏だった。高尾山に富士登山を代行させる政策をとったのである。

 北条氏康は、薬師堂の修理として寄進を行っているが、不動明王の豪快な姿に戦国を生きる武将として何かあこがれるものがあったのかもしれない。氏康の信仰は、その子、八王子城主の氏照にも 伝わり高尾山を保護する政策を展開した。保護制札を立てて、狼藉、喧嘩、押買等を禁止し、違反 者は厳罰に処するといったことから治安が保たれ参拝の人で活気付いていた。         
 氏康の次男氏照は、滝山城主大石氏を継承して八王子、榎本、古川、栗橋、小山の5城の城主となった。小田原北条氏にとって、最前基地である滝山城に隣接する高尾山は、甲斐の武田信玄の関東 侵攻を阻止する上で極めて重要な場所であった。信仰上はもちろんのこと、政治、軍事両面で高尾 山を勢力範囲として自治下に置くことは最も重要な政略であったといえる。 氏康は永禄三年(1560)、高尾山薬王院薬師堂修理のための寺領を寄進、さらに、八王子城主北条氏照も永禄四年(1561)、高尾山に寺領三千疋などを寄進するほか、高尾山薬王院は北条氏から厚い保護を受けることとなる。

 また、高尾山は戦略上重要な位置にあり、八王子城防衛の自然の要害ともなったところである。一方、天文年間(1532〜55)には、山上に浅間社を勧請、以降富士信仰の山としても知られるようになる。

 氏康の死後、天正10年、北条氏は武田信玄の侵攻に備えて城を滝山城から八王子城へ移転、よ り高尾山と密接な関係を保ち、森林の保護にも心を砕いた。八王子城が小仏谷を隔てた高尾山と対 するところに築城されたことも高尾山の地位を戦略上も重要にしたといえる。          
 このころ、上杉謙信は武州岩槻城主太田資正とともに小仏谷を越える軍勢の乱暴を禁止するため 制札を高尾山に下している。
武田信玄も同様に関東侵攻にあたり八王子周辺で交戦し、北条軍を敗 走させているが、高尾山は戦火を免れている。


江戸時代

 高尾山の信仰は武士から庶民にと移っていった。

 特に不動信仰が起こり、各地の不動が江戸にて 出開帳を行ったといわれる。高尾山も同様に2ヶ月間にわたり江戸開帳を行って相当の江戸の庶民 達の信仰を得ていったと思われる。江戸中期以降には、江戸市中の本所、湯島、内藤新宿、両国方面の宿寺で薬王院の出開帳がおこなわれ、高尾山薬王院への江戸町民の関心も強く、百を超す講中を数えた

 小仏峠は、高尾ハイキングコースの中間地点としても有名だが、ここにたどる尾根沿いの道はもともとは現在よりかなり南に下ったところにあったらしい。かつての道筋は今は廃道となってしま っているが高尾山薬王院から甲州街道の小仏峠へ通じる道は、この頃は「富士道」といっていた。 その名の通り、城山山頂からは南側に相模湖が広がり、丹沢山塊を経て富士山がその雄大な姿を現 している。

 この道は、富士信仰の人々がこの富士を仰ぎ見ることができる富士山浅間神社を目指し て通った道でもある。江戸時代、7月1日の山開きとともにこの尾根づたいの道には、白装束に身 を固めた人々が、長い行列を作っていったという。文政2年(1819)、甲州街道八王子追分に 江戸の清八が立てた「左高尾山」と刻まれた道標は、江戸時代の庶民にとっての高尾参りがいかに信仰の要となっていたかを今に伝えるものとなっている。
                              
 慶安元年(1648)に御朱印境内七五石を受領するなど、徳川幕府からも手厚い保護を受ける。
 元禄十五年(1702)、常法談林所(常時、僧侶の教育、研究などがおこなわれる寺)となる。享保十四年(1729)には飯縄権現堂本殿を建立、宝暦三年(1753)には拝殿と幣殿を再建して、現在見るような拝殿、幣殿、本殿の三殿一体となった彩色葦麗な権現造りの飯縄権現堂(御本社)が完成する。



明治時代

 時は明治に移る。

 明治元年(1868)、神仏分離令が発布され、高尾山は大きな時代の波を被 ることとなる。
 神仏分離令の施行後、江戸時代の仏教国教が神道国教に急旋回し、伊勢神宮を頂点とする神道国教化政策が着々と推進されていった。一方寺院僧侶から収奪の限りをつくされていた民衆も廃仏毀釈運動にはこぞって参加し、堂塔・伽藍や、仏像・仏画・絵巻物・経典・汁物などの破却・焼却に手を貸した。全国で破却され廃寺になった寺院数は、当時存在した寺院のほぼ半数といわれているが、現在までの調査・研究ではその総数はまだ把握できない。

 悪乗りした庶民によって廃仏毀釈という打ち壊しの嵐が吹いて、とりわけ神仏融合した社寺が襲われた。薬王院の本尊である飯縄大権現は飯縄不動と改称するなど寺院はその対応に神経を 注ぐことになる。高尾山薬王院は、寺院であることを強く主張して難を免れたという。因みに、信州の飯縄権現は歴とした神社である。

 明治四年(1871)には、薬王院付近の大半の土地は薬王院付近の約十町歩を残しすべて上地し、同二十二年、帝室御料林となり(戦後農林省に移管)、寺院の経営に大きな痛手を与える。のちこの帝室御料林は、昭和になって国有林に指定を受けました。

 こうした中で明治14年(1881)高尾山薬王院は、醍醐寺末から智積院末に移行して明治31年には真言宗智山派別格本山になり翌々年には、現在の薬王院大本堂を再建、落慶、明治に入り長く続いた苦難の道からの脱却に成功することになった。

 大正12年の関束大震災の被害や昭和4年の火災などにより、山内諸堂宇焼失などの苦しい経験を経るが、逐次、改修を重ね、戦後昭和二十七年には飯縄権現堂、翌二十八年に奥之院不動堂、三十五年には仁王門が、相次いで東京都文化財(建造物)に指定を受けるなど、東京都における江戸後期の代表的建築文化財として高く評価され、基盤の整備が遂げられる。


国際観光地第一号

 神奈川条約に基づく日米修好通商条約により横浜が開港したが、その条約に「外人遊歩規定」な るものがあった。横浜を起点として10里以内の地に限り外人の遊歩を認めたのである。

 1861 年、英国領事館付通訳官数人が乗馬で八王子を通過し高尾山に登山したのである。
 これに対し日本 政府からは条約違反だとして強硬なクレームがなされたが、英国側は「10里以内は直線距離であ り違反せず」として両者の意見が対立してしまった。高尾山は日本の観光地として国際的に注目を 浴びた第一号である。


昭和の高尾山

 昭和31年には、日タイ親善の証としてボーイスカウトの尽力により、山内に釈迦の分骨を納めた仏舎利塔を建立、奉安。

 高尾山有喜苑と称し、また、塔前に柴燈護摩(さいとうごま)道場を設け、修験者の修行道場としている。さらに、昭和33年には真言宗智山派大本山となる。
昭和34年の伊勢湾台風、同41年の台風により、仁王門、額堂、鐘楼、大本堂、方丈殿などに、再度未曾有の被害を受けたが、43年には飯縄権現堂、大本堂、方丈殿などの改修も終えて復興した。明治100年(昭和42年)、「明治の森国定公園」に指定された。

 昭和48年には「昭和の山容整備計画」を発表、それに沿って53年に新客殿有喜閣、59年に四天王門、63年には不動院別院などを建立した。


平成の高尾山

 平成10年には飯縄権現堂の大改修をおこない、江戸後期の代表的社殿建築として極彩色の典雅な姿を再現させました。また平成5年から9年にかけて、境内に新たに八大龍王堂、引きつづき、愛染堂、聖天堂などを建立されました。

 現在では成田山新勝寺、川崎大師平間寺と共に関東三山のひとつとして、厄除けをはじめ、病気平癒、開運、学業成就、火防せと多岐に渡る御利益があると言われています。

 また、高尾山の自然環境にも恵まれ、毎年多くの人々が参拝に訪れています。
なお、薬王院の参道はハイキングコースとなっており、東海自然歩道ともなっている。
                           
 

ミシュランで三つ星

 最近、高尾山が人気だ。理由は旅行ガイド版「ミシュラン・ボワイヤジェ・プラティック・ジャポン」に高尾山が三つ星を獲得して掲載されたからだ。フランスで刊行されたこの本は、外国人のための日本旅行ガイドで、名所や観光地を取り上げてお得意の星の数によって評価をしている。京都や奈良、日光などの世界遺産に並んで、山としては富士山と高尾山だけが三つ星を獲得しているのだ。

 高尾山がミシュランに評価された大きな理由は、電車で都心から1時間圏とは思えないほどの豊かな生態系。イギリス全土の植物種に匹敵する1300種以上の植物が自生し、「貴重植物」とされる草木類も100種を数えるそうです。昆虫は5000種以上、野鳥も日本に生息・飛来する鳥の3分の1にあたる約150種が確認されています。
 
 高尾山の玄関口となる京王電鉄・高尾山口駅の利用者数がこの1年間で12万人増え、2007年度は110万人に達し、「ミシュラン効果」の恩恵にあずかった。今後、京王電鉄は新宿にある京王プラザホテルなどグループ企業と連携して外国人の誘致などを進める考えだそうだ。




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