本文へスキップ

悲劇の名城 八王子城の歴史 北条氏照の登場〜 高尾通信



高尾山歴史ガイドreal estate


TOP −> 高尾山歴史ガイド −> 悲劇の名城 八王子城


八王子城の歴史

 多摩丘陵を望む小高い山の上に築かれた、関東屈指の巨大山城である「八王子城」。
 豊臣方の軍勢に攻め込まれ1日にして落城した八王子城とはどのような城だったのか。
 そこには悲劇の物語が隠されていました。


八王子城主 北条氏照とは

 時代は豊臣の天下統一に大きく動いていました。
 多くの大名が豊臣秀吉の軍門に下り、あるいは共存する道を選んだ時代。
 その中で、最後まで秀吉に屈せず抵抗し続けた一族が北条です。

 八王子城主「北条氏照」の名前は、あまり聞いたことがないひとが多いかと思われます。 小田原に本拠をおいた早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直と5代、100年続いた北条氏は有名かと思いますが、氏照はこの三代氏康の次男で氏政の弟にあたる人物です。        
 1540年にこの世に生を受け、1590年に小田原城にて氏政と共に自害をしたと伝えられていますが、実は氏照については、詳しい資料があまり残っていません。
 これは戦国時代には珍しいことではなく、当主として家を継ぐ長男以外の記録は、曖昧な場合が多いようです.

 わかっていることだけで話をつなげると、氏照は天文9年(1540)、北条氏康の3男として生まれました。
 永禄2年(1559)、20歳の時に関東管領上杉憲政の重臣で武蔵守護代、滝山(横山)城主・大石定久の娘を娶り、養子となって家督を譲られ、大石源三氏照と名乗ります。
 大石氏は滝山城を本拠として埼玉県や多摩に力を持っていました。

 定久が隠居後、大石領は北条氏康の支配化に入り、氏照は滝山衆を自らの家臣団に組み込みました。氏照はこの頃、姓を北条に戻したのであろうといわれます。
 当初氏照は滝山城にいましたが、永禄半ば頃から北条氏が下総、下野、常陸方面へ進出するための軍事責任者として活躍し始めました。
 いってみれば北条軍を代表する戦上手の氏照軍、北条軍団のエースとなっていくわけです。北条一族の中では、兄であり小田原上の城主であった氏政をよく助け、北条の勢力拡大に力を尽くしたとのこと。

 しかし氏照が力を発揮したのは戦だけではなかったのです。
 外交面でも大活躍して、会津の芦名氏や出羽米沢の伊達氏とも信交を深めていきます。
 永禄11年(1568)には甲斐の武田信玄が甲相駿同盟を破棄して今川氏を攻めたため、北条氏は武田氏と敵対することとなり、氏照は弟の氏邦とともに越後の上杉謙信の許に赴いて、翌年、越相同盟を結ぶなど、外交面でも活躍します。

 しかしこれによって、滝山城は合戦の舞台となりました。 永禄12年(1569)、武田信玄は北条領に侵攻します。滝山城に攻撃をしかけた武田勢は三の丸まで落とし、滝山城は危機に陥ります。しかし小田原城攻撃を目的とする武田軍は滝山城を1日だけ攻撃して、翌朝には姿を消したのでした。

 かろうじて耐えた滝山城でしたが、この反省を踏まえ、氏照はこの滝山城から八王子城に移ることを計画します。

 八王子城については詳しい記録が現存しないので いつ頃築城したのかまだ不明な点もおおいのですが、豊臣秀吉を意識して築城したというのが定説になっています  

 当時、北条は100を越える出城を築いたとも言われています。八王子城にも小田原城の支城としての大きな役割がありました。

 位置から考えて、小田原城の北側を守る、つまり、武田や上杉に対抗するための城であったことは間違いないでしょう。しかし、氏照はこのときすでに、豊臣との戦いを意識していたのではないかと考えられています。

八王子城築城の経緯

 氏照は早くから自分の居城を八王子へ移したかったようです。というのもこの地は二十日 市場を中心とした経済的にも栄えていた場所でもあり、また宝生寺や高尾山薬王院などの 伝統的な寺院、神社を多数有する聖地でもあったからなのです。
 さらに、鎌倉街道や甲州 への街道が集中する交通の要衝でもあり、まさに軍事的な重要拠点でもありました。
 もともと八王子城の南には十十里山という防衛拠点が置かれていたのですが、永禄12年に武 田信玄が小田原攻めの途中で滝山城を包囲した際、武田軍の部隊が小仏峠を越えてここに侵入し、ここを守備していた氏照軍を打ち砕いたといういわうる十十里合戦が行われ、これにより滝山城が落城寸前だったという苦い経験があります。
 これで氏照は八王子城を築くことにしたのではと考えられます。 

 ちなみに八王子とは法華経にある仏教伝説で釈迦の前で多くの人が悟りを開き出家した際 に最後に出家した王の八人の王子がその後仏門に入ったという話に由来しています。
 この八王子信仰が各地に伝わり、八王子社がこの山の頂上に建てられたというものです。

 そのような聖地に、豊臣秀吉を意識し、戦闘用の城として移転するのが八王子城なのです。氏照が軍事の専門家だから滝山城では豊臣軍とは戦えないことを十十里の合戦から判断していたのでしょう。情報にも強かった氏照は豊臣軍とは本拠の小田原城で籠城戦になると考 えていたのではないでしょうか。

 だから各城は少数部隊で持ちこたえられる造りにしておく必要を感じ、滝山城のような平地ではなく山城の形をとった攻めにくいし守りやすい八王子城を考えたのだと思われます。
 しかしそれが八王子城の悲劇を生み出すことになろう とは氏照は予想もしなかったでしょう 

八王子城は山城

 八王子城が建てられたとされる近世においては、多くの城が平地を利用した平山城、「平城」が主流でしたが、八王子城は深沢山の山頂に築かれた山城です。

 山城が多く建設されたのは、まさに戦闘が頻繁に起きた戦国時代です。高地での建築は非常に難しいことから、他の城に比べて質素な作りが多いのも特徴です。大規模なものになると、いくつかの周辺の山に、本丸や二の丸といった支城を建て、山系全体を防御施設にするものもあります。つまり、「山城」とは、文字通り山を利用して築かれた城のことです。

 八王子城が自然の地形を利用した要塞と言う役割の強い「山城」として築城されたことは、実は当時の潮流とは逆行したものと考えられていますが、これはなぜでしょう。

 前述の通り、戦国時代の山城の大半は、山頂に防衛施設を建て、住居は麓に構えていたようです。
 ところが、戦国時代後期に入ると、段々世の中が安定し始め、険しい山の上にある山城に滞在することは、領主にとって不便と見なされるようになっていきました。ここで平山城または平城と呼ばれる城が台頭します。
 山城の目的が防衛に特化したものであるのに比べ、平山城や平城は、防衛以外にも政治や経済の中核を担う機能も持つよう造られています。
 流通の便の良い、町の統治がしやすい場所に城を築き、防衛のために掘を何重にも掘ったということ、つまり、山の上では不便なため、平地に城を構えるということです。
 貿易などに便利なよう、交通の要所を選んで築城されることも多かったようです。平城の周囲には段々と城下町が形成され、繁栄していったのです。

 ところが、八王子城は、規模は大きいですが、典型的な山城タイプの城です。
 そんな時代に、山城を築城の理由には、北条氏がそれ程までに守りを重視していたと言う歴史的背景があります。
 北条氏はこの他にも山城を築いていますが、八王子城はそのなかでも最大規模の物で、発掘により石垣などに近世城郭の特徴などが見られることも分かっています。

 山頂に本丸、そのまわりに防衛のための郭がいくつか設けられ、また、山頂に向かう道の途中にも、郭らしき跡が残されています。
 八王子城の守りについていた武将たちはこれらの郭から矢を放ち石を落として、必至の防衛を行ったのでしょう。戦後の発掘調査で、山の中腹部分を中心にたくさんの矢尻や鉄砲玉が発見されています。
 山頂部分の平地はそれほど広くないため、防衛のための最低限の設備だけが築かれていたようです。

 平山城や平城が盛んに造られ始めた時代に築かれた、戦国末期最期の山城とも言われています。




高尾山の歴史
小仏関所の歴史
八王子の歴史(大石氏)
八王子城の歴史
八王子千人同心