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悲劇の名城 八王子城落城す 高尾通信



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八王子城の歴史

八王子城落城

 『武州八王子古図』によれば、豊臣軍は、前田隊・上杉隊の順に西から南浅川を渡り、横川経て元八王子へ到着したようです。
 また、『北条記』によれば、戦いに際し、前田利家は使者を出して、「関白様の出向であり、周囲の城も明け渡れている。八王子城も早々に御渡し願いたい。さもなくば即、攻め落とす」と伝えたが、城側はこの使者を斬り捨てたという。

 ならばと豊臣勢は、大道寺・上田・木呂子・金子・木幡上総守以下の降将ども総勢1万5千騎を先頭に攻め、彼らは軍功を見せ本土を安堵してもらおうと必死に突撃したという。(『北条記』)
 攻撃開始は、丑の下刻(午前2〜3時)とするもの(『北条氏照軍記』)、夜八ツ時(午前1〜3時)とするもの(『桑都日記』)があるが、いずれにしても、1590年6月23日の夜も明けぬ深夜・早朝だったのでしょう。八王子城包囲網に戻った前田利家は、横川村の本陣にて攻撃のとりかかりのタイミングをはかっていたのだが、6月22日夜半になると周辺が霧に覆われた。
 夜の闇の中、しかも霧が掛かっていればなおさせ視界が悪く、八王子城からの鉄砲射撃を受けても当たる確率は低いと思われた。そこで日が変わる頃から軍を進めて、6月23日朝2時頃から前田利家が攻撃を開始したというわけだ。

前田利家勢1万8千と上杉景勝 勢1万を主力とし、八王子城は3千人で、城主北条氏照の留守を預かる横地監物(よこちけんもつ)をはじめ中山勘解由(かげゆ)家範、 狩野一庵、近藤綱秀らが死守しました。

 前田利家が攻撃を担当したのは、八王子城の正面だったといわれる。まずは、八王子城の家臣の屋敷が集中する、根小屋付近で八王子城勢の抵抗を受けた

 八王子城方も奮戦しましたが、城の虎口ともいうべき山下曲輪が落ちた頃に夜が白んできたといわれている。実質的には半日ともたず落城したわけです。
 落城した時間は榊原康政の加藤清正宛書状に「早朝」と記されており(水戸松平文書)、約4時間の死闘だったと思われる。丑刻には早くも町(根小屋)を押し破ったが、本城ではこの様子を知らず、朝霧深かったために敵兵を見ることもできなかった。そこに一気に攻め手が寄せたわけです。

 まずは、「近藤曲輪」「山下曲輪」が猛攻にあい、近藤出羽守、金子家重ら多くの城兵が先陣であった大道寺政繁隊に討たれ、首級は250を数えた(『桑都日記』) 
 「近藤曲輪」では、両軍鉄砲の打ち合いとなり、敵味方の相交える鉄砲の音は雷のようだったという(『北条氏照軍記』)
 小さな曲輪がいくつも現れては攻めに攻め、現れた「金子曲輪」を攻撃。金子家重らを討ち取り、首級は250を数えたが、この攻撃には、同じく降伏していた松山衆も加わっていたという。金子曲輪まで攻めた頃には、夜が明けて来たとさせる。

 一説では、小宮曲輪には狩野一庵、中の曲輪には中山勘解由、山頂曲輪には大石信濃守が守っていてそれぞれ助け合ったため、前田利家の家臣・青木信照ら30余名が討死したという。
 しかし、上杉隊の藤田信吉が城内に詳しい平井無辺に案内させて水の手(棚沢)から奇襲を掛けたため小宮曲輪は危機に陥った(『武蔵名勝図会』)とある。

 小宮曲輪で、狩野一庵は必死に防戦したが、多勢の豊臣軍により重ねて二の陣が攻め立て、城側に内応者が出て櫓に火を懸けて、ことごとく敗北した。
 中山勘解由と狩野一庵は中の曲輪で自害し、大石信濃守は切って出て散々に合戦して敵をあまた討ち取り最後に討死した(『北条記』)。
 一説によれば、甘糟清長が陣所を焼いて燃え上がり、そうした乱戦の中で、中山勘解由は奮闘の後に自刃した(『北条氏照軍記』)。
 中山勘解由の活躍は寄せ手からも注目を浴び、前田利家は中山の助命を伝えたが、これを良しとせず自刃したという。

 一方、上杉景勝は月夜峰の本陣 から、暗い中、出羽山砦へと尾根伝いに進み、御霊谷門を打ち破って上ノ山に上がり、更に尾根伝いに太鼓曲輪へと進撃していた。

 一説によれば、八王子城代として「山頂曲輪」を守っていた横地監物はこれを切り抜け山に逃れたという(『北条氏照軍記』)。
 城が1日にして落城したことは、横地監物にとっては、無念の極みであり、再起を期すべく数名の従者とともに、燃え盛り、今まさに落城せんとする八王子城より脱出したとする話です。
 経路としては恩方醍醐から市道山に抜け、桧原城を目指したとされているが、追手に捕まり惨殺されたとされている。桧原には横地社があったが、今は八王子城跡に昭和32年に移転されたとされる。 

 また自害した中山勘解由には嫡男照守と次男の信吉がいました。照守の「照」は主君氏照の「照」を賜ったもので、「照守」の意味は主君氏照を守る という意味であったと伝えられています。
 合戦後、中山勘解由に感じ入った徳川家康は後に小田原に残っていた照守と弟信吉 とともに水戸徳川家に召し抱えます。慶長5年(1600)9月、関が原の合戦のと き、照守は徳川秀忠に仕えていたが、秀忠が信濃上田城を攻めたとき、照守は「上田の七本槍」の一人として活躍したという。
 照守は3千 500石を知行し、御旗奉行を勤め、八条流の馬術をよくしたという。父の名を継ぎ、勘解由を名乗った。

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 また、青梅の師岡氏などの侍も最後までよく戦ったそうです。しかし戦力の差はプロのアマチュアの差ほど大きくかったようです。

 八王子城は堅城だったらしく、前田利家は「名城ゆえに犠牲が多く出た」と記し(『尊経閣文庫文書』)、 榊原康政は「鳥や獣が飛び回り、立つのも困難な城」と言っている(『水戸松平文書』)。この後の七月、八王子城は上杉景勝の家臣・須田満統が預かったという(『覚上公御書衆』)
 戦死者は、周辺の寺の過去帳では527名もしくは680名だという(『大善寺過去帳』など)。『関八州古戦録』は、前田軍が280、上杉軍が273の首級をあげて秀吉に報告したとある。一説には千余名が討ち取られたともいう(『桑都日記』)。榊原康政は、千人を討ち取ったといい(『水戸松平文書』)、前田氏側の史料には三千と記すものもある(『国書遺文』)。戦後、山をまわって遺体の供養をした相即寺の牛秀讃誉は1,283体を確認して引導を渡し、うち283体を回収し埋葬したという(『相即寺寺伝』)。これには攻め手の人数も含まれていると思われ、かなり正確な数字といわれている。

 このように八王子城合戦は、秀吉−北条合戦の中で唯一の殺戮戦であり、最も凄惨な合戦でした。

 また実際に戦った者たち以外にも八王子城にはその妻子たちが 多くおり、この人たちは、館の南にある御主殿の滝の上で次々と自刃しその滝に身を投げたといいます。
 これにより城山川はその川の水が真っ赤にそまりそれが三日三晩続いたといわれています。(凄惨な落城に様々の落城伝説があります)                                
 このようにして小田原城で八王子城の悲報を聞いた北条氏照は床を叩いて号泣したといいます。
 その後秀吉の命令で、小田原城に籠城している妻子を船に乗せ、海から小田原城にこぎ寄せ狩野ら討ち死にした老将の首を城中に届けさせ籠城軍の戦意を喪失させたといわれています。

 また前田・上杉両軍は小田原を目指して八王子を通過の際、相模に向かって行軍する中に、八王子城で捕らえられた婦女子が、ぼろぼろに破れた着物を身に纏ったみすぼらしい姿のまま歩かせ、これが小田原城の開城を早めたとする研究もあるようです。

 いずれにせよ八王子城の陥落は小田原城に籠城していた北条軍の志気を失わせ、7月に開城することになりました。北条氏照も兄氏政ともに切腹しました。              
 秀吉の小田原攻めのなかで、八王子城の落城が特に語られるのは、このように八王子城の落城は唯一の殺戮戦であったからでしょう。八王子城は、まさに地獄攻めとも言われる猛攻を計画されます。
 木村常陸介が出した「落人取締触書」によると「八王子城よりの落人が逃げた先から帰ってきたら知らせるように、またよく捜して見つけ出せ」とあり、北条方は、一人たりとも逃がさじときびしいものだった。
 天正13年の秀吉といえば、関白となりまさに得意の絶頂であり、徳川家康を臣下につかせ、島津や北条など辺境の地の小さな存在にしか見えなかった時期でしょう。

 秀吉の自信は、相手の実力を十分に調べあげたものであるのに対し北条の自信は家柄によるものだったともいえるでしょう。
 実力差に気づかないまま抵抗を続けた北条、特に最高権力者であった氏政の凡庸に犠牲となったのが、八王子城であったかもしれません。
 秀吉は敵対する相手には皆殺しの態度をとってきましたが、すぐに降伏した者には寛大な処置をしており、北条も徳川家康の仲介を素直に聞き入れ秀吉に臣従していれば、このまま関八州の盟主として君臨することもできたでしょうし、あのような悲劇も生まれなかったのかもしれません。                               




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