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八王子千人同心 駆け抜けた誠の武士魂

千人同心に関わる人々



徳川家康

 1590年に北条氏照が城主だった八王子城が豊臣秀吉の関東制圧で落城し、新たに関東の領主となった徳川家康は、江戸への入府の際に、武蔵国多摩郡八王子(現 東京都八王子市)を甲斐・武蔵の国境警備の重要拠点、敵の侵入を守備する重要な砦と考えました。

 そこで滅亡した甲斐武田家の家臣だった小人頭とその配下250人を八王子に移し、農地を与えて甲州口の警備に当たらせました。それに付近の農民を加え、翌年には500人。10年後となる1600(慶長5)年には、1000人にまで増員されました。
 これが八王子千人同心の始まりです。

 千人同心は警備を主任務とする軍事組織であり、徳川将軍家直参の武士として仕えていました。
 千人同心は千人頭と言われる旗本を筆頭に10組、各100人で編成されていました。千人同心は1600年関ヶ原合戦では、家康の警護を行い、1592年には、豊臣秀吉による朝鮮への出兵もしています。
 1652年からは、交代で家康を祀る日光東照宮を警備する日光勤番が主な仕事となりました。


松姫

 千人同心達の精神的拠り所は松姫(信松尼)でした。松姫は旧主武田信玄の娘で、天正10年(1582)勝頼が天目山田野で自刃して武田が滅びた折、小田原北条氏の庇護を求めて、兄や家臣の幼い娘3人を連れて甲斐を脱出、甲武国境を越えて八王子に落ちていました。
 一方、天下は家康の時代となり江戸幕府300年の礎ができました。そして江戸に入府した徳川家康は、甲武国境の警備を完全なものとするため、武田の遺臣を集めて八王子に千人同心を組織したのです。

 千人同心達は武田の旧臣として松姫を心から敬愛し、精神的、経済的に支援を惜しまなかったと伝えられます。遺臣たちにとっても信松尼の存在は象徴的なものであったのでしょう。 

 また、家康は関東の総代官所を八王子に置き総代官には大久保長安を任命するのですが、大久保長安もかっては武田の家臣でした。
 家康とても武田信玄を崇拝していたので、松姫が八王子にいるのを知り、寺領を贈り、消息も尋ねていたが、松姫の凛とした態度は変わらなかったといいます。

 松姫は、侍女たちとともに蚕を飼い、染物をそめ、機を織って3人の姫を育てます。
 また、武田一族の菩提を弔らいながら、近隣の子供たちには手習いを教えたりして土地の人々から慕われました。松姫は皆に慕われ、その気高い姿と心は今も語り継がれています。
 この時に松姫が伝えた織物が後世八王子織物として発展していくこととなったのです。 
 1616年(元和2年(4月16日)、松姫は、温かい人々に看まもられながら眠るが如くに56歳でその生涯を閉じます。
 臨終に際して,邸を捨てて寺とするよう心源院の舜悦に遺言し、没後10月徳川家康に仕えた旧武田の家臣たちの援助をうけて八王子信松院が建立されることになります。
 法名 信松院殿月峰永琴大禅定尼。奇しくもその翌日17日には徳川家康もなくなり、日光東照宮に祀られました。その守護に千人同心は日光東照宮の火の番として勤める事になった。
 墓を囲む玉垣は、没後132年目に千人頭・千人同心らが寄進したものです。



大久保長安

 大久保長安は天文14年(1545)、武田氏の猿楽師(武士に仕え能という芸能をした人)の次男と言われています。もともと武士の身分ではありませんでしたが、武田信玄によって武士に取り立てられ、租税や食糧など主に民政を担当していました。成長した長安は武田家の家臣、土屋昌続の家臣となり、性を大蔵から土屋へと改めています。「大久保」と名乗るのは家康に仕官してからであり、与力として仕えた大久保忠隣から賜ったものだと言われています。

 家康が関東へ移封された後、長安は家康から武蔵国の一部(八王子市あたり)を与えられます。その際、長安は武蔵国の治安と国境警備のために、旧武田家の家臣を召し抱えた「八王子千人同心」を創設します。

 このように、長安が才能を発揮したのは、武芸ではなく内政面でした。功績が高く評価され、各地の奉行職を経て、最終的には江戸幕府の最高の役職である年寄(後の老中)にまで昇進するのでした。「天下の総代官」と呼ばれる程、絶大な権力を誇っていました。
 また、家康の六男である松平忠輝の家老を務めていた時期もあります。

 天正18年(1590)に家康が関東へ国替えとなった時、長安も家康に従いました。八王子に入って小門に陣屋を設けて、代官頭として他の代官とともに関東の統治や、八王子などの町の整備・支配をしました。
 その後も、財政や交通など活躍は多方面に渡りました。特に石見銀山(現在の島根県)、伊豆金山(現在の静岡県)の奉行、佐渡(現在の新潟県)の代官として、各地の金銀山の増産に成果を挙げ、その才能を発揮しました。

 長安は慶長18年(1613)4月25日、駿府(現在の静岡県)でその生涯を閉じました。
 その死後、徳川家康に生前の不正の疑いをかけられ、財産は没収、残された男子7人も死罪となってしまいました。家康の疑いが真実だったか分かりません。
 長安の優れた才能、全国各地の鉱山開発等で蓄えた多くの財産、キリシタンとの接近が家康の疑念を生み、また恐れさせたという説もあります。

三田村鳶魚

 鳶魚は、明治3年3月17日(1870年)、武蔵国八王子の八王子千人同心の家系に生まれました。本名は万次郎、後に玄龍。三田村家は天保期に商人となり、機屋(織物買継商)を営んでいました。

 自由民権運動に参加し日清戦争での従軍記者、報知新聞記者などを経て江戸風俗や文化を研究し、またそのための勉強会を主催しました。
 参加者の一員の森銑三は、鳶魚・三村竹清・林若樹(林研海の子)を「江戸通の三大人」と評しています。森の終生の友人で随筆家の柴田宵曲が、鳶魚の口述筆記を多く担当しています。

 三田村鳶魚の江戸学は非常に広範で多岐に渡り、鳶魚江戸学と呼んでも差し支えないような個性的なものといわれています。
 あまりにも膨大な文章のため、没後稲垣史生が鳶魚の研究成果を事典形式にまとめた「三田村鳶魚 江戸武家事典」「三田村鳶魚 江戸生活事典」(青蛙房)などを編纂しているほどです。その多岐に渡る研究の業績から「江戸学」の祖とも呼ばれています。
 1952年に疎開先の山梨県下部温泉の近くの湯沢温泉の不二ホテルで没します。

板垣退助

 板垣退助といえば真っ先に思い浮かぶのは「板垣死すとも自由は死せず」というフレーズでしょう。しかし、実は板垣退助と八王子千人同心には様々な関わり合いがあります。
 板垣退助は、1837年5月21日、土佐藩上士(馬廻格・300石)乾正成の嫡男として、高知城下中島町(現 高知県高知市本町通2丁目)に生まれました。乾家は武田信玄の宿将で武田四天王
 昌平坂学問所の教官も勤めていた若山勿堂を師として儒学、山鹿流兵学を学んでいます。
 慶応元年(1865年)には、洋式騎兵術修行の藩命を受けて、江戸でオランダ式騎兵術を学んでおり、和洋両方の戦術や軍制に知識がありました。
戊辰戦争ではこの学んだ知識の全てを注ぎ込んで徳川幕府軍を追い詰めることに成功します。
 土佐勤王党の流れをくむ隊士を集めた迅衝隊総督として土佐藩兵を率い、東山道先鋒総督府の参謀として従軍しました。

 天領である甲府城の掌握目前の美濃大垣に向けて出発した慶応4年(1868年)2月14日が祖先・板垣信方の没後320年にあたるため、「甲斐源氏の流れを汲む旧武田家家臣の板垣氏の末裔であることを示して甲斐国民衆の支持を得よ」と、岩倉具視等の助言を得て、板垣氏に姓を改名します。

 この策が講じて板垣に改名した退助は、その後破竹の進軍を進めます。甲州勝沼の戦いで大久保大和(近藤勇)の率いる新選組を撃破したばかりではなく、その後に江戸に転戦した際も、旧武田家臣が多く召抱えられていた八王子千人同心たちの心を懐柔させるのにも絶大な効果があったといわれています。

 また、戊辰戦争の際、日光にいる幕府軍を討つため官軍が日光に迫ります。
 このままでは東照宮はもちろん、日光全体が戦場と化してしまうと判断した千人同心組頭の石坂弥次右衛門は、幕府軍の大鳥圭介に相談し、日光を官軍に明け渡すことにしたのです。

 大鳥軍が日光を脱出したのが四月二十九日。その翌日閏四月一日の午前十時頃には、土佐藩隊は神橋の辺りに集結しました。
 その土佐藩隊を出迎えたのは、日光奉行所吟味役大塚誠太夫、塚田東作、石坂弥次右衛門に対して実は、この時の官軍のトップは、あの板垣退助だったのです。
 板垣退助は、まわりに反対されたが明け渡しに応じることにしました。
 これにより、日光は戦火からまぬがれたわけです。

平山金十郎

 天保10年(1839年)、武蔵国小梅村(現・東京都墨田区向島)の魚問屋に生まれ、郷兵寄宿所の指導など箱館奉行所の仕事に従事していた平山金十郎は、峠下に入植した八王子千人同心の子弟を教育する私塾を開いていました。

 大政奉還の後、蝦夷地は箱館府が治めることとなり、五稜郭で府知事・清水谷公考が政務を執っていましたが、平山は、南部出身の浪人・花輪五郎、八王子千人同心出身の渡辺元長、馬場政照らと、五稜郭を襲撃し、清水谷知事を捕虜にする計画を立てるのでした。慶応4年(1868年)7月5日決行予定でしたが、直前に渡辺元長が内通し、箱館府兵に検挙されます。花輪五郎らは捕まり、五郎は切腹し、金十郎は逃亡、峠下の山中に潜伏します。

 その後、箱館戦争で旧幕府軍に加わり戦うが、敗戦後に小舟で蝦夷地を脱出し、仙台、江尻(現・静岡市)を転々とします。
 

新選組の人々

 文久2年(1862)江戸幕府は庄内藩郷士・清河八郎の策を入れ、将軍・徳川家茂の上洛に際して将軍警護の名目で浪士を募集します。
 その翌年文久3年(1863)2月、約200名の浪士が「浪士組」として中山道を通って京都に到着します。
 ところが、発案者の清河等は攘夷を唱えて江戸に戻りますが、近藤勇・土方歳三を中心とする「試衛館派」と芹沢鴨を中心とする「水戸派」は京都に残留し、新選組の前身である「壬生浪士隊」を結成するのでした。
 そして、京都守護職の会津藩主・松平容保から市中警護を任されます。その後、8月に「新選組」と名を変え、9月18日に乱暴狼藉を働く芹沢鴨等を暗殺して近藤勇を頂点とする組織に整備されるのでした。

 その後、幕末尊皇攘夷の志士達を震え上がらせた「新選組」ですが、近藤勇は上石原村(調布市)、鬼の副長土方歳三は石田村(日野市)の出というように「試衛館派」の主力は、三多摩出身の百姓達でした。そして、新選組は「八王子千人同心」とも密接に関わっていくのです。

 千人同心は農民の要素を持ちつつも、まぎれもない武士でもありました。つまり、農業にも携わっていながら日頃から剣術の鍛錬に余念なく、また、学問全般もこなすという、ある意味、武士らしい武士だったのかもしれません。
 確かに禄こそ低い郷士ではあるものの、徳川家に拾われ同家の「恩」を痛感する甲州武田の武士道の精神を凛として受け継ぐ千人同心達でした。

 もともと八王子、日野といった多摩地区には豪農が多かったのですが、その豪農たちの屋敷内に剣術の道場が置かれるようになりました。そして江戸から師範を招き、盛んに稽古が開かれます。主流となるのは、江戸に本部を置く「天然理心流」という流派でした。
 天然理心流は遠江出身の近藤内蔵助が寛永期(約200年前)に開いた剣術、柔術、棒術、気合術から成る総合武術です。内蔵助は江戸・両国の道場を経営する傍らで、多摩にも出稽古を行なっていました。

 調布・上石原の豪農宮川久二郎の三男で天然理心流の三代目当主となった近藤周助に見込まれ、養子となり、四代目当主となったのが、後に新撰組の組長となる近藤勇なのでした。

 このように八王子千人同心と新選組の出身者がほとんど一心同体の中で、武田家遺臣の徳川家への報恩思想が脈々と生きてきており、更に徳川260年の歴史を支えた多摩地方の幕府と地域住民との絆の深さなどが重なり合って、新選組を支える強烈な佐幕思想に繋がっていったのです。




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