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八王子千人同心 駆け抜けた誠の武士魂

千人同心異聞



梅女の悲劇

 八王子千人同心隊がその警備のため、北海道の白糠、そして苫小牧勇払に夫々50人を引き連れ赴いた。
 しかし火山灰の土地に農作物は育たず、手持ちの野菜はすぐに底をついた。さらに冬の寒さは関東の武州と比べ想像を絶する。
 病人も続出したが、手当もできぬまま、その死を看取るほかに術はなかったという。

 さて、八王子千人同心頭、川西佑助の妻、梅はこの地「勇払(ゆうふつ)」へ来たただ一人の和人女性だった。
 その中で梅は、佑助の子を身ごもり出産する。
 だが母親の食べ物が満足に無いため乳がでない。
 赤児は、でない乳房をくわえて力無く泣くだけであった。
 梅はそれを見てどうすることもできない。
 夫の祐助は仕事に追われ留守がちである。

 梅も病となり、そのからだは日に日に衰弱していくのでした。
 ついに梅は愛しい赤児を胸に抱き「この子に、お乳を…」と言いながら二度と故郷の土を踏むことなく、入植して3年後の享和3年(1803年)5月22日夜、幼い赤子を気にかけつつ25歳という若さで梅は亡くなってしまった。

 梅の死後、雨の夜になると赤子を抱いた若い母親が「この児にお乳を下さい」と言って泣きながら近所の家の戸をたたいてまわり、可哀想にと思って外に出てみると誰も居らず、若い女性が墓場の方へ消えて行くという姿が何度も目撃されるようになった。
 近所の人は「あれは梅さんが、幼い子供を気にかけて亡くなったせいだろう。
 可哀想に…」と噂し、“夜泣き梅さん”と呼び、その霊を悼んだと言う。

 夫の佑助は妻への追慕と哀惜の情を「哭家人(かじんなげく)」と題し、七言絶句を墓碑銘に刻んだ。

万里の辺(ほとり)に游(あそ)びて未だ功成らず/わが妻ひとたび去りて旅魂を驚かす/子を携えて慟哭(どうこく)す穹盧(きゅうろ)の下/尽くし難し人間惜別の情

 梅が亡くなった翌年、同心隊は箱館奉行所勤務になり、開拓地は放棄された。祐助も5年後に勇払を撤収して箱館に移るが、勇払での疲労が重なったのでしょうか、ほどなく死去した。

 墓は伊達市有珠の善光寺にあり、梅の名も並んで刻まれている。
 建てたのは祐助と梅の遺児だったという。

 昭和48年には苫小牧市が千人同心隊の偉業をたたえ、その下には赤子を抱いた梅の像も建立した。愛し子を抱き、亡霊となった“夜泣き梅さん”の銅像である。この像は北海道苫小牧の市民会館横に建っている。


蛇姫様

 了法寺の境内に入ると本堂脇に6つの稲荷明神を勧請した稲荷社があります。その稲荷の一つに文護稲荷があります。

 文護稲荷には千人頭の娘にまつわる伝説が残されている。

 江戸時代のこと、追分に千人頭萩原頼母の屋敷があった。
 頼母には美人の一人娘がいた。
 その娘が金弥という若者と恋仲になった。
 近くの槍持の大森助八の女房は何かと二人の力になってやったが、これを知った頼母は不義の交わりと怒り、屋敷内のささげ畑の榎の下で二人を打ち首にしてしまいます。
 すると間もなく大森家の門の上に雌雄の蛇が現れるようになりました。
 その大森家が没落すると今度は隣の大野家の蔵に現れるようになった。ある日のこと、近くに住む百姓の三吉が二人を斬首した豆畑が空地になっているので、これを畑に耕し野菜などを作った。

 ところが間もなく発狂して死んでしまった。
 里人は蛇姫様の祟りだとして、榎の下に稲荷社を建て、文護稲荷と名付けて姫と若者の魂を弔った。
 その文護稲荷は今は了法寺の境内に他の稲荷とともに祀られています。

天然理心流と千人同心

  志を掲げ、幕末を駆け抜けた新撰組。北辰一刀流、神道無念流などの剣客も多く在籍した新撰組ですが、局長の近藤勇、土方歳三、沖田総司、井上源三郎など、中核を担うのは天然理心流の一門でした。
 実戦本位の剣法で、実際に命のやり取りをする場面になると当時、滅法強かったと言われる剣法ですが、新選組の消滅と共にいっとき、時代に埋もれてしまいました。
 日頃から有事の際に備えて剣術を始めとする武術の鍛錬を日課としていた八王子千人同心と「天然理心流」には深い関わりがありました。

 そもそも天然理心流が発祥したのは江戸中期の寛政年間頃といわれています。
 天然理心流の創始者・近藤内蔵之助は剣術の真髄を極めるため広く諸国を修行して歩き、古流剣術の源流といわれる鹿島新当流を学び、後に自ら創意工夫をこらし剣術・柔術・棒術・気合術を含む総合技術を考案し、「天然自然の法則にしたがう」ことで、心と体を鍛え技を磨くことから「天然理心流」と命名したことにはじまります。

 「天然理心流」は必殺剣であり、常に真剣勝負を想定している為、竹刀稽古に重点を置かなかったと言われます。

 さて、内蔵之助は勇躍して江戸に出向くと道場「試衛館」を開きましたが、当時江戸には斉藤弥九郎の練兵館、千葉周作の玄武館、桃井春蔵の士学館という、いわゆる「江戸の三大道場」がありました。「位は桃井、技は千葉、力は斎藤」と称えられたそれぞれは、時代を象徴するような多くの志士たちを生みだしました。

 これに比べると、天然理心流は、多摩など近隣の農民たちに門弟が多いためか「田舎剣法」「芋道場」と呼ばれて知名度も肩書きもない内蔵之助の流派に江戸の人々は見向きもしなかったと考えられます。
 これは江戸時代中期に当る寛政年間は戦いのない泰平の世となり、多くの剣術流派はそれまでの実戦志向から離れて道徳や学問を重んじる傾向が強くなり、必殺剣という実戦的な剣術を旨とする内蔵之助の天然理心流は泰平の世の人々から支持を得られなかったことによります。

 ところが内蔵之助の噂を聞きつけた一人の八王子千人同心組頭との出会いが天然理心流に大きな運命の転機をもたらしました。
 千人同心組頭の坂本三助は安政3年(1774)武州多摩郡戸吹村の名主である坂本家の長男として生まれ、当時まだ20歳の若者でしたが、千人同心の中でも剣の遣い手として知られていました。
 三助は泰平の世に流行っている軟弱な剣術よりも有事の際に戦場で有効な実戦的剣術を求めて模索していました。そこで三助は内蔵之助を八王子に招き手合わせを求め、この時に互いの実力を認め合ったといわれています。

 以後三助は内蔵之助に師事し、通常では20年掛かるといわれていた指南免許を10年で修得しやがて三助は内蔵之助の後継者となり天然理心流宗家2代目を襲名して近藤三助と名乗りました。

 こうして天然理心流は千人同心組頭だった三助が宗家2代目を相続したことで多くの八王子千人同心を門弟として迎え入れることになり、三助は内蔵之助と共に剣技を磨き、これが天然理心流の礎となったのでした。

 この時の弟子に後の増田蔵六がいます。蔵六は武州多摩郡戸吹村の千人同心坂本重右衛門の子として天明6年(1786)に生まれ、文政8年(1825)千人同心組頭の増田家の養子となり千人町の屋敷内に道場を設け千人同心達に天然理心流を指導したといわれています。

 ところが、三助は若くして病没してしまい、戸時代末期天保元年(1829)に宗家3代目の継承者に選ばれたのが近藤勇の養父・近藤周助(周斎)でした。

 周助(周斎)は初代宗家・内蔵之助が最初に江戸へ進出したことを想い、再び江戸に「試衛館」を開いたのでした。
 この「試衛館」には後の新選組の中核となる、近藤勇・土方歳三・沖田総司、山南敬助、永倉新八・井上源三郎、原田佐之助、藤堂平助等が稽古をしていました。

 しかし天然理心流本来の活動拠点はあくまで多摩にあったため、出稽古という形で師範が多くの道場を回るという活動が定着していたといわれています。
 天保5年(1834)に生まれ、近藤周助の養子となり4代目に就任した近藤勇もまた日野・八王子方面に出稽古に来ていたのでした。

桑都日記と千人同心

 桑都日記(そうとにっき)とは、文政期から天保期にかけて編まれた多摩地方八王子地区の地誌書のことです。書名の「桑都」とは、かつて「織物の町」と称せられた八王子を指し、千人同心組頭・塩野適斎が編纂しました。

 多年の調査と膨大な資料をもとに、天正10年(1582)から文政7年(1824)までの243年間を、八王子千人同心と地域の様々な事項について、編年式に解説を加えたものです。
 文政10年(1827)に正編15巻23冊、図解1巻2冊が完成、天保5年(1834)に続編24巻24冊、図解1巻1冊を脱稿し、正続合わせて江戸幕府に献上され、出版までには至らなかったが八王子地区の歴史研究の第一級資料となっています。

 「桑都日記」(極楽寺蔵)は東京都有形文化財(古文書)に指定され、現在八王子市資料館に寄託されています。2002年度(平成14年度)に修復がほどこされた際、表紙の芯紙から「新編相模風土記稿」津久井県之部の草稿の一部が発見され、初めて現物があることが確認されました。

千人同心の株売買

  江戸時代中期頃より千人同心の身分は「株」として売買され、千人同心職の譲渡が盛んになり、八王子に集住していた同心達に代わり、関東近在の農村に散在する富農層が千人同心職を兼帯するようになったといいます。

 こうして、当初は八王子に集中していた千人同心も東は東京都三鷹、西は神奈川県津久井、南は神奈川県相模原、北は埼玉県飯能まで居住域が広がるようになりました。
 なぜこのような同心株の売買が起こるかということですが、一般的な幕臣は、定められた職も特段なく、江戸の町中でただ漫然と過ごすにすぎません。
 ところが八王子同心はというと両刀を差して日光まで旅をし、日光では警備の仕事がありました。そこで、やや不謹慎ではありますが、侍気分を味わってみたいという富裕な農民や町人には魅力的に映ったようです。

 もっとも同心株の売買には千人頭の許可が必要で、その名目はたいてい同心の息子が病弱で勤務に耐えられないから養子を迎えるということでした。
 そして実際は何年かすると買った同心株は返還していたようです。

 さて、狭山茶で有名な埼玉県入間市の中島園には、同心株の購入について興味深い記録が残っています。
 中島家というのは根岸小谷田村(現入間市根岸)の農家の一つで、寛永12年(1635)10月の「検地帳」では、屋敷地1畝26歩、田畑は1町2反8 畝歩余の土地を所有しているとの記録も残っているようですから、かなり富裕な農家であったようです。
その9代目次郎順久は長く「八王千人同心」へあこがれていましたが、ついに天保11年(1840)11月に同心株を購入して、由緒番代わり、つまり名義上の 養子縁組という方法で実現したのでした。

 この株は八王子宿の榛沢逸作という千人同心が、病身で役務ができないという理由で売却先を求めていたもので、宗次郎は株金65両に諸経費 合わせて82両1分余の大金をかけて取得したということです。
 宗次郎は榛沢逸作がもともと属していた原半左衛門組に属し、「榛沢宗次郎」と名乗り役目に精進したということです。



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