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八王子千人同心 駆け抜けた誠の武士魂

千人同心ゆかりの地



金竜山信松院

 東京都八王子市台町に、曹洞宗の金竜山信松院があります。この寺は、甲斐武田家の旧臣で、そののち、徳川家康の家臣となった、大久保十兵衛長安の尽力によって建てられた尼寺ですが、ここに眠るのが武田信玄の娘松姫です

 武田氏の滅亡により甲斐から逃避行して八王子にたどり着いたという信松尼の噂が、長安の耳にも入ります。しかも信松尼とはあの武田信玄の娘、松姫だというのです。

 もともと長安の父は、甲斐武田家の猿楽師でしたので、その息子である長安から見れば、信玄の娘といえば、もう雲の上の存在でした。

 加えて、松姫は、当時から「心優しく、甲斐の男たちは、松姫と弓矢の誉れとどちらを選ぶかと聞かれたら、誰もがたちどころに、弓矢を折り捨てたであろう」と称されたほどの女性でしたので、その姫君が生活に困っていると聞けば、放っておけるものではなかったでしょう。

 思いあまった長安は、新たな主君となっている、家康に相談を持ちかけます。すると、信玄を尊敬している家康は、即座にうなずいたといわれます。
 こうして長安は松姫のために「信松院」創立に尽力することになるのでした。

【交 通】
JR西八王子駅南口より徒歩15分
JR八王子駅南口より京王バス西八王子駅行き5分、信松院下車

【住 所】
〒193-0931 八王子市台町3-18-28


本立寺

 本立寺は、千人頭原刑部胤従(文禄4年1595年卒)が開基となり、慶長元年(1596)当地へ移転の上中興したといいます。江戸期には寺領12石の御朱印状を拝領していたといいます。

 原胤敦は通称を半左衛門といい、寛延元年(1748)八王子千人同心の千人頭の家に生まれ安永五年(1776)その家督を継ぎ、寛政一二年(1800)に千人同心の子弟100人を率いて蝦夷地(北海道)にわたり、その地の開拓に従事しました。

 この開拓事業を主導した原半左衛門胤敦の墓は、弟の新介の墓とともに、菩提寺の本立寺にありますが、墓前に建つ石灯籠は、苫小牧市から贈られたものです。

 また白糠町とは隔年ごとにお互いの小学生が行き来して、交流を重ねています。

【交 通】
JR『八王子駅』南口より徒歩10分

【住 所】
東京都八王子市上野町11-1


興福寺

 京王高尾線の狭間駅からほど近い閑静な住宅地に鎮座する曹洞宗の寺院・興福寺は、聚林山千光院と号します。本寺第四世香山充孫によって開山されました。

 関東十八代官に名を連ねる雨宮勘兵衛の祖に当たる雨宮秀徳が、天正8年(1580年)に開基となって、開かれたのが始まりされています。
 慶長2年(1597年)に神奈川県愛甲郡小野村にある龍鳳寺の末寺となり、慶長5年(1600年)に、示戚興福寺第三世昭庵が寺領七石の朱印を与えられています。

 墓地には設楽家ゆかりの宝篋印塔。千人同心の墓。桜の時期には、稲荷大明神が建立された頃に植樹されたとも伝わる寺院の入口のしだれ桜が訪れる人の目を楽しませます。夏はゲンジボタルの観賞会も催されるなど、季節を楽しめる散策や憩いの場所として地元の方に愛されています。

【交 通】
京王高尾線「狭間」駅から徒歩8分

【住 所】
193-0834 東京都八王子市東浅川町754

極楽寺

 国道16号が浅川と交差する橋のたもとにある極楽寺は、1504年(永正元年)滝山城主大石定重がその城下に創建しました。
 北条氏照が元八王子に築城すると同地に移り、さらに天正18(1590)年の落城にともなって現在地に移転しています。

 墓地には、江戸時代初期に八王子の集落整備に貢献した長田佐左エ門、「桑都日記」の編著者八王子千人同心組頭の塩野適斎、武田氏滅亡のとき松姫とともに八王子に逃れ、仏道に帰依し、29歳で亡くなった松姫(信松尼)の姪・玉田姫(小督姫)の墓があり、これら三つの墓は東京都指定文化財となっています。

 1945年(昭和20年)の八王子空襲では焼失を免れたため遺体収容所として利用された。また本堂などが罹災者の生活場所となりました

【交 通】
八王子駅より徒歩20分

【住 所】
192-0062 東京都八王子市大横町7-1


千人同心屋敷跡碑/千人町

 千人同心の組頭たちが甲州街道沿いに屋敷を並べていたことから、今でも八王子市には「千人町」の名が残っており、甲州街道と陣場街道の分岐点である追分交差点付近には、「八王子千人同心屋敷跡碑」が建てられています。

 なお、この「八王子千人同心屋敷跡碑」には、八王子市による以下の説明版が設置されています。

 「天正18(1590)年7月徳川家康甲州より小人頭及其支配下240人を元八王子其他に移駐、八王子城落城後の治安警備に當らしめ翌19年(1591)末更に250人を増員文禄2年(1593)1月亦500人を増員し八王子千人同心成る。同心百人一組十組に分ち各組に頭一人を置く。鎗奉行に属し専ら甲信の備えと留守居役に就く。爾来平生農耕に従い亦文武両道を研鑽多くの卓越せる功績を遺す。特に二百余餘年間に亘る日光廟勤務を始め蝦夷地開拓地の先駆武相風土記稿編纂他地誌学上の貢献等は彼等が不朽の大業なり茲に八王子千人同心に最もゆかり深き二百七拾餘年間駐在の地を卜しこの碑を建て昭和33年秋10月日光東照宮廟前に建てられたる碑と相俟ちその功を永く顕彰せんとす。(八王子市)」

 なお、現在の陣馬街道は石碑の右側の広い道路ですが、元の旧道は石碑左側の細い道です。
 寛政元年(1789)の宿場絵図を見ると、追分付近の陣馬街道の北側(写真右側)は千人頭原家の屋敷になっています。
 また、「千人町」は最初から呼ばれていたのではなく「五百人町」と呼ばれていたことが記録にあり、「千人同心」「千人町」と呼ばれるようになったのはしばらくたった寛永年間(1624〜)頃からと言われています。

【交 通】
JR西八王子駅から徒歩約10分

【住 所】
東京都八王子市追分町11

興岳寺

 八王子市にある曹洞宗の寺院で、山号は万松山。本尊は薬師如来。
 廣岳院六世随翁舜悦和尚を勧請開山として月窓伝朔が寛永年間(1624-1643)石坂弥次右衛門屋敷内に草創、開基は千人頭石坂弥次右衛門森信だといいます。以後石坂家の菩提寺となりました。
 本堂に向かって左側に幕末には無血で日光を明け渡した責めを負って切腹した八王子千人頭石坂弥次右衛門義礼(よしたか)の顕彰碑が建てられています。
 境内には石坂弥次右衛門の墓所があり、市史跡に指定されています。

 義礼は日光勤番として、徳川家康を祀る日光東照宮を護る立場にありました。慶応4年(1868年)戊辰戦争の際、幕府軍を率いる大鳥圭介らが日光山に立て篭もり、板垣退助らの官軍と対峙していあした。
 この時、義礼は大鳥に相談して伝習隊を日光山から下山させ、幕府軍と官軍の戦いを未然に防いで日光山を焼失の危機から救ったとされています。
 しかし、八王子に帰還した義礼は、官軍と一戦もせずに日光東照宮を明け渡したことの非を問われ、責任を取り切腹して果てたのでした。この縁で八王子市と姉妹都市となった日光市から寄贈された香炉が興岳寺墓地にある義礼の墓前に置かれています。
「新編武蔵風土記」には下記の記載が認められます。
「境内除地、三段餘、街道の南側にあり、萬松山と號す禅宗曹洞派にて、江戸芝二本榎廣岳院の末寺にして、寛永の比かの六世の住僧随翁舜悦和尚の草創なりしを、後に赤塚の正月院、山田の永明院の持と也、寛保二年より廣岳院に屬せりと云、開基は千人頭石坂菅兵衛が先祖彌次右衛門森信にして、今の境内も昔は彌次右衛門が屋敷なりしを、享保二十年罪あり改易せられて、一旦廢家となりし時、寺地のみは舊きによつて除き賜はりしとなり、當寺は近き年丙丁の災にかゝりて、堂舎以下ことごとく烏有となり、今は僅に假堂をいとなみ建てり、本尊は彌陀の立像なり、昔の本尊は開基彌次右衛門が自作の彌陀なりしがこれも回録の災にかゝりしより、その後ち千人組秋山喜左衛門と云者再造し寄附す。」

【住 所】
193-0835 東京都八王子市千人町1-2-8


大久保石見守長安陣屋跡/小門町

 大久保長安は武田信玄に仕え、武田氏滅亡後に徳川家康に召し抱えられました。八王子城落城後、小門宿に陣屋を置き、関東18代官、「千人同心」を統括しました。
 新八王子宿の建設を行い、町を浅川の氾濫から守る石見土手を築いたとされています。
 また、街道の伝馬制や一里塚を整備した。石見銀山、佐渡金山、伊豆の金山等の奉行となって増産をおこなって、江戸幕府の財政基盤を作り破格の昇進をとげたが、没後に生前の不正が発覚したとして葬儀は中止。遺子は死罪となり財産は没収されました。
 屋敷跡に産千代神社が在りますが、これは鬼門除けの守護神として創建したもので神社に伝わる狐伝説等から安産福徳の神として崇拝されています。

【交 通】
京王八王子駅・JR八王子駅北口から「館ヶ丘団地」「長房団地」「上川霊園」「川口小学校」行きなどのバスで「織物組合」下車徒歩約5分。

【住 所】
東京都八王子市小門町82

宗格院

 千人町にある宗格院は、武田家臣山本土佐忠玄の子、价州良天が文禄2年(1593)千人同心として八王子に移り住んだ父親の供養のために建立した寺院で、千人同心組頭松本斗機蔵の墓が在ります。

除地、二段七畝二十八歩、馬場の側にあり、良价山と號す、禅宗曹洞派、上椚田村興福寺の末山なり、寺記を閲するに、當寺は文禄二年价州良天和尚の草創する處なり、良天は甲州武田家の人山本土佐忠玄と云ものの子なり、山本氏世々山梨郡恵林寺の檀越たるにより、幼より剃髪して彼寺に入て臨済の宗派をうけしに、天正十年武田家滅亡の後、父忠玄及兄山本彌右衛門忠房共に、御當家へ召出されて千人頭となり、八王子に移り住せしにより、良天も亦従て當所へ来りて、興福寺に寓居せしが、後文禄年中千人組へ第宅の地を分ち賜ひしかば、良天その除地を請うひ奉り、草庵を造立して宗格庵と號せり、これは良天が父菩提のため立しものなれば、即ちかの法諡の字を用ひしなりと云、依て良天が兄忠房を以て開基とす、良天は文禄四年四月八日化す、享保の初までは猶庵室なりしに、興福寺第六世の住僧永雲和尚の願によりて一寺となり、良价山宗格院と號し、興福寺の第二世國芳和尚を以て傳法の開山となし、それより臨済を改めて曹洞派となりて興福寺の末山となれり、客殿六間半に五間半、本尊正観音を安ず、坐像にして長五寸九分、作知ず。
観音堂。客殿に向て左の方にあり、二間四方、正観音立身、長一尺一寸なるを安置す、佛師運慶が作る所なりと云。
鎮守社。同じ並にあり、稲荷金毘羅を相殿とす。
妙見祠。客殿に向て右の方なる小高き塚上にあり、この塚は昔経文を書寫して埋みししるしなりとて、今も猶経塚と唱ふといへり。(新編武蔵風土記稿より

【交 通】
JR西八王子駅より徒歩5分

【住 所】
〒193-0835 八王子市千人町2-14-18

 

馬場横丁

 宗格院の南東の角に『馬場横丁』の木柱があります。
宗格院の北側には、八王子千人同心の乗馬の訓練場である「馬場」があったのです。従って甲州街道の「西八王子駅東」交差点から、ここまでを『馬場横丁』と呼んでいます。なお甲州街道沿いにも「馬場横丁」の石柱が設置されています。

高宰神社

  八王子市散田町五丁目三六番に鎮座する高宰(たかさい)神社は、日本史南北朝期の終り頃、京より高貴な御方が故あって、かたく氏名をかくし(恐らく南朝の公家と思われる)現在の御所水の地に居住したことからはじまります。
 逝去後、由井地区の杉山峠に埋葬され、後山田村広園寺境内の一角に一祠を建立し、小蔵主明神と号し、鎮座したのが神社のの起源とされています。
 その後、散田地区に移り、降って正保慶安の頃更に、真覚寺境内に移しそこで高宰神社と命名し、現在にいたったものです。
 当社は、霊験あらたかで、「八王子千人同心」の神として深く崇敬され、千人町、散田町、並木町、山田町、めじろ台等の守護神となっているのです。


【交 通】
めじろ台駅 から徒歩7分(593m)

【住所】
東京都八王子市散田町5丁目36

多賀神社

  社伝によれば天慶元年(938)に源経基が勧請して建てられた、八王子宿の西の鎮守です。
 「千人同心」の信仰も厚く、厚慶応2年(1866)に千人同心が第二次長州征伐に出兵した際、組頭の神宮寺金一郎、川村豊左衛門、塩野幸七郎が大坂で、こちらの扁額を作らせたそうです。
 なお、その扁額は郷土博物館に保存されています。

宝泉寺

  宝泉寺は、JR日野駅前にある臨済宗建長寺派の禅寺です。宝泉寺の創建年代は不詳ですが、元徳年間(1329-1332)の開創と言われ、鎌倉建長寺五十九世曇芳周應(応永8年1401年寂)が開山、江戸期には寺領7石の御朱印状を拝領したといいます。
 当初は姥久保にありましたが、火災にあい、その後、現在の地に再建されたといわれています。
 宝泉寺墓地の奥まった所に井上家の墓所があります。墓所内には新選組六番隊長・副長助勤井上源三郎(戒名:誠願元忠居士)の墓碑が建てられています。

 墓誌には、源三郎と共に兄松五郎(戒名:清松軒仁□智勇居士)、源三郎の 死をみとった泰助(戒名:泰岳宗保居士)の名も見られます。裏面には井上源三郎を称える文面として性真摯篤実寡黙実行の人であると彫られています。


八王子千人同心の組頭の家

  小金井公園の中にある「江戸東京たてもの園」には江戸時代の農家が3軒復元・展示してあります。このひとつが八王子千人同心の組頭の家です。なお組頭とは100人の郷士の頭です。

 「八王子千人同心組頭の家」は、「綱島家」「吉野家」とともに江戸時代後期の藁葺き屋根の農家の趣ですが、組頭の家は、下級とはいえ武士の屋敷ですので、中央の玄関には式台があり、座敷には床の間があって武家屋敷としての格式を表しています。
 元は、八王子市追分町にありました。
 この千人同心は武士階級の一番下層の郷士です。武士であるので名字帯刀を許され、八王子に領地をもらい受け農業をしています。ですから住んでいる家は農家作りです。
 この八王子同心は武田信玄の家臣たちを家康がかかえて甲州への防御と、後には日光東照宮の整備清掃、そして東照宮への参拝行列の足軽として奉仕する役目を果たします。

千人同心日光街道

  八王子千人同心が日光東照宮勤番のために整備した街道で、甲州街道・横山宿先の八王子市の千人町から日光東照宮までの40里(約160km)の脇往還です。 
 千人町から佐野(天明宿)で例幣使道と合流し、楡木で壬生道、今市で日光本道と合流、その後東照宮へ向かったものです。宿場は佐野市の天明まで拝島、根ヶ崎、二本木、扇町屋、根岸、高萩、 坂戸、高坂、松山、吹上、忍、新郷、川俣、館林、のあわせて15宿が整備されていました。

 街道名については、従来から日光脇往還、日光火之番街道、日光裏街道などとも呼ばれどうやら統一された街道名はなかったようです。なお、日光脇往還と呼ばれたのは、江戸日本橋と日光を結ぶ日光街道に対して、八王子と日光間をつなぐ道筋であるところからつけられた名前です。

 江戸の西の守りを使命として、旧武田家家臣を中心に配置された八王子千人同心には、太平の時代になって日光東照宮の警護という新たな任務が与えられた。

 日光勤番とか日光火の番役と呼ばれるこの任務は承応元年(1652)に始まったもので、日光に赴いたルートは最初の2回及び一時期は江戸・千住を経由したものの、3回目以降のほとんどが八王子から北に向かう松山(埼玉県東松山市)・佐野(栃木県佐野市)経由でした。

 この道は、千人同心以外にも北関東から大山・富士山等に向かう人々にも利用され、今でも随所に残る道標が往時の賑いを物語っています。現在でも、埼玉県日高市から鶴ヶ島市にかけての国道407号は「日光街道杉並木」という名称で杉並木が残るほか、東京都瑞穂町の青梅街道交差点に「旧日光街道交差点」など名称が、坂戸市には日光街道の碑が建てられています。

勇武津資料館

  勇武津資料館は、苫小牧市市政施行50周年、八王子千人同心移住200年を記念して、2001年(平成13年)4月1日に開館しました。

 建物は、江戸時代末期に勇払に所在した勇武津会所の外観にちなんで建てられ、館内には蝦夷地(北海道)開拓の先駆けとなった千人同心の生活用具や出土した史料などを展示当時の生活をしのばせる調度品、弁天貝塚から出土した資料を展示しています。
 苫小牧一帯に広がる勇払原野には、1800(寛政12)年、八王子千人同心がロシアの南進に備えての北方警備に入植。その前年に八王子千人同心組頭・原半左衛門は50人を引き連れて白糠(しらぬか)に入植、その弟・原新介が残りの50人とともに勇武津(苫小牧市勇払)に入植しています。原が次男・三男対策として蝦夷地の警備を幕府に申し出たものと伝えられています。
 そんな知られざる歴史を今に伝えるのが勇武津資料館です

 一帯は史跡公園となっており、勇武津場所に関わった会所関係の墓石9基10人分、八王子千人同心関係の墓石4基9人分、場所請負人関係の墓石2基7人分、その他不明の墓石3基3人分、合計18基29人分の墓石が祀られています。
 墓石群はかつて勇払原野に散在していましたが、戦後、勇払墓地に集合したもので、最も古いものは八王子千人同心が勇武津に移住した寛政12(1800)年のもので、新しいものは江戸時代最後の慶応3(1867)年に建立されたものです。公園北側には開拓使三角測量勇払基点もあり、復元標石が置かれています。
北海道苫小牧市勇払132-32

井上源三郎記念館

  八王子千人同心を代々務めた井上家。新選組六番隊長井上源三郎の兄で、八王子千人同心だった井上松五郎の子孫が開いている土蔵を改装した資料館です。
 松五郎は、天然理心流を日野に広めた人物といわれ、井上松五郎・源三郎兄弟に関することを中心に、新選組や、八王子千人同心に関する資料を展示しています。

住所:東京都日野市日野本町4-11-12
時間:12:00〜16:00、
※第1・3日曜のみ開館。団体のみ平日開館応相談

時の鐘

  「時の鐘」と聞くと、川越の時の鐘の姿が思い浮かんでしまう。しかし、あまり知られていないが、八王子の寺町の一角、念仏院にも時の鐘というのがあります。これは、元禄12年(1699年)、八日宿の名主、新野与五衛門の発願により千人同心や近郷近在の村の人々の寄進で造られたものです。

「市指定文化財 時の鐘
  所在地    八王子市上野町二番地
  指定年月日 昭和三十九年七月二十三日
この鐘は、元禄十二年(一六九九)七月、八日市名主新野与五右衛門を大旦那として、千人頭、千人同心、宿内十五組をはじめ、近郷村々の協力により鋳造されたものである。
鐘の大きさは丈一米四八糎、鐘銘に「武州多西郡八王子町時之鐘」と八王子町の名が刻まれており、二七〇余年の間八王子十五宿の人々に時を告げ、したしまれてきている。
   昭和五十二年三月二十日
                         八王子市教育委員会」

 鐘楼は昭和20年(1945年)の空襲で焼失したのですが、昭和29年(1954年)に再建されました。現在は時の鐘として突かれることはなくなったが、かつては明け六つ(午前6時)と暮れ六つ(午後6時)の2回、周辺の地域に時を告げていたそうです。千人同心達が寄進した鐘は八王子の歴史を伝えるものでもあります。




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