高尾山の雑学・豆知識
行基と高尾山
この高尾山、高尾山縁起によれば、ここを開いたのは遠く聖武天皇の時代にさかのぼるらしい。この時代は、日本古代史の中で最も華やかな奈良時代であり、奈良の都には東大寺の大佛殿などが造営され、日本全国六十余州の各々の国には、国分寺が建立された。
真言宗智山派大本山である高尾山薬王院は、奈良時代の天平十六年(744)に聖武天皇の勅命を受け、東大寺大仏の建立の悲願のため諸国に国分寺造営を命じた天皇の願いを達成すべく薬師の像を刻んだ行基が東国鎮護の祈願寺として、道を開いたと言われている。
行基は、和泉国大鳥郡蜂田郷に、父、百済系渡来人の高志才智(こしのさいち)の血をうけて生まれたと言われる。母は蜂田首虎身(はちだのおびととらみ)の娘古爾比売(こじひめ)と伝えられている。15歳で出家して薬師寺に入り、道昭に「瑜伽師地論」「成唯識論」などの
教典を学び、さらに竜門寺の義渕に法相(ほっそう)たちまち理解し、秀才の誉れが高かった。
24歳の年、受戒。初め法興寺に住し、のち薬師寺に移る。やがて山林修行に入り、この間に優れた呪力・神通力を身につけたという。その後、山を出て文武天皇の慶雲元年(704年)、弟子たちを自ら率いて、民間布教に努めるとともに、民衆と道路をつくり、交通の難所には橋を架け、池を掘り、水路を通し、提を築くなどの土木開発を推進し、摂津・河内・和泉・山城など畿内諸国を行脚したという。
山岳修行時代に豊富な技術者等の人脈を持っていたこともあり、そのことを聞いた人たちも皆やってこぞってその事業に協力した。行基は地図の専門家ではなかったが、僧侶として測量技術についての学識があり、測量技術集団を統括していたともいう。また、平城京造営のために諸国からかり出された使役の民の、路傍に餓死する者の多いのを見て、救済として布施屋(宿泊所)施薬院を作った。その他全国にわたり開基した寺院道場は約700におよぶといわれている
彼のこうした社会事業が行われていた頃、国家仏教の形をとっており、「僧尼令(718年編纂、757年より施行)」によって、民間への布教活動は禁止されていた。僧尼令によると、すべての僧尼は静かに寺の中にいて、仏の教えを受け、仏の道を伝え、国家の安泰を祈念すべきであるとされていて、民衆教化を禁止していた。行基の行動は明らかにこれに違反するものであった。行基とその一門は、禁を破ったとして弾圧を受け、五度にわたって中止を命ぜられた。しかし、行基は禁を犯しても民衆救済のため屈することなく続けていったという。
天平15年(743)10月15日、聖武天皇は仏教の興隆によって、鎮護国家、万民の平安を願って、巨大な盧遮那仏(大仏)造立の詔勅を出した。国を挙げての大事業を完遂させる為には、どうしても畿内に大きな組織を持つ行基の協力が必要であった。
行基は、その時すでに76歳になっていたが、自ら弟子達をひきいて積極的に参加し、
また、大仏造営が資金難により中断すると、歓進活動を行い莫大な寄進をしその再開を助けた。このこともあり聖武天皇には深く敬重され、天平17年には、我が国で最初の大僧正の位を授けられ、更に400人の出家を彼に弟子として与えられた。人々は彼を行基菩薩と呼んだという。
天平宝字元年2月2日、奈良西郊の菅原寺で数千の弟子に囲まれ生駒の往生院に葬られたが大仏開眼会を目にすることはできなかった。
それにしても行基が開いたと記録に残っている寺院は、畿内のみならず、高尾山薬王院をはじめとして東京・神奈川・栃木・茨城・千葉各県にある。いやいや岩手県から宮城県にも見受けられる。
しかし本当に行基が、高尾山に登ったかどうかは疑問視する人も多い というのも歴史をひもとくと行基は76歳で来たことになるのだが、行基は幾内をほとんど出なか
ったいわれている。おそらく高野聖が布教や勧進のために諸国に出向いたように、行基の信者集団の人達が、なんらかの足蹟を残しておられるのではないかと推測される。
豆知識目次に戻る