高尾山の観光ガイド
ホーム > 高尾の観光ガイド > 高尾山薬王院内の見どころ
高尾山の見どころ 薬王院の歴史を紐解きながら
高尾山頂の東側にあり、正式には高尾山薬王院有喜寺といいます。天平16年(744)に、聖武天皇の勅願により、行基が薬師如来を刻み、安置したのが開基とされています。永和年間に、京都醍醐寺の俊源大徳が飯綱大権現を祀り、修験道場として以来、時の武将達の帰依、保護を受け寺は栄えます。
仁王門は三間一戸の八脚門で、間口が3.62メートル、奥行2.72メートル、一重、屋根寄棟造、銅板葺。江戸前期の建築とされており、慶作仁王像(八尺)を安置してあります。
仁王門のすぐ正面にあるのが七間四面の薬王院本堂です。
「高尾山」の額がすぐ眼に入ります。堂内の中央には護摩壇が設けられており、不動、座像不動(弘法大師作といわれている)が安置され、その各側には本尊の大日如来座像と左右に不動と愛染像が並んでいます。
飯綱権現堂は三間四面、屋根入母屋造り、銅板葺き。享保14年(1729)の造立で、周囲に回り縁をめぐらし、軒下の組物、彫刻に極彩色が施されています。
不動堂は間口、奥行とも3間、四方に回り縁を設け、屋根は宝形造り、銅板葺き。堂内の須弥壇とともに寛永年間の建立とされています。
寺宝として仁王門 大師堂 飯繩権現堂 奥之院、奥之院不動三尊像 本堂内安置の地蔵尊、高尾山薬王院文書二、五七三点いずれも都重宝に指定されています。
また永禄3年(1560)の北条氏康寄進状をはじめ、太田道灌、上杉謙信らが出した制札や印判状など多くの中世文書が残っています。
薬王院の見どころ・建造物
飯縄権現堂
神社建築の形式の1つで、寺院建築の要素を取り入れられています。拝殿、幣殿、本殿の三殿一体となるところから「権現造り」と言われます。本殿と拝殿を石の間または相の間と呼ばれる建物で繋いだ形を取り、石間造とも呼ばれます。
その造りは、まず左右に長い本殿を置き、その前に拝殿を配し、その間を「石の間」で繋いだもので、上から見ると「エ」の字の型になる。
権現造りは、平安時代から始まりましたが、江戸時代に久能山や日光の東照宮で用いられて、大流行しました。京都の北野天満宮も有名な権現造の建物です。
飯綱権現堂の本殿は一間社入母屋造りで銅瓦葺き。享保14年(1729)、現高尾町大工栗原佐兵衛能政と同政右衛門能恒、中島七兵衛清重らによっての造立され、これに続き宝暦3年(1753)には拝殿、幣殿が現熊谷市村岡の大工須永織江源信安、同直吉源元晴父子により再建、また、文化二年(1805)、八王子大工小町土佐正源金定により大改修が行われました。
戦後昭和40年には棟梁加文字棟一郎により大修理が行われました。本尊飯縄大権現が安置されていますが、秘仏とされており開帳されていません。
拝殿は桁行三間、梁間三間の入母屋造り、正面に一間の軒唐破風の御拝を付しています。拝殿正面には第三十二世隆玄貫首揮毫の「飯縄大権現」の額が掲げられています。
幣殿は桁行三間、梁間三間の両下造りで、拝殿と本殿をつないでいます。
各社全体に回り縁をめぐらし、軒下の組物、彫刻に極彩色が施されています。昭和27年に東京都の有形文化財に指定されています。
またこの飯縄権現堂の正面両脇には、大天狗、子天狗、そして手前の山腹には36童子像が、それぞれ御本尊飯縄大権現の鎮座する聖域を形作っています。
鐘楼
高尾山薬王院の鐘楼は、本堂の右脇にあります。
薬王院の最初の鐘楼がいつ建立されたのか記録がないようですが、現在のものは昭和41年の台風により倒壊し、昭和49年、以前の形と同じ袴腰、入母屋造、銅板葺の姿で再建されたものです。
安政2(1855)年の古地図にもほぼ同じ位置に描かれており、鐘楼脇に保存されている梵鐘は寛永古鐘とよばれ、寛永8(1631)年の鋳造とされています。
仁王門
高尾山薬王院有喜寺本堂前に南面して、三間一戸、八脚門、単層、寄棟造、柿葺型銅版葺屋根の仁王門が建立されています。
向かって左側には密迹金剛力士像(吽形)、右側には那羅廷金剛力士像(阿形)が安置されています。
仏法守護のための仁王像を安置する仁王門は、必ず三間の桁行(間口)で、一つの出入り口を備えた三間一戸形式で建てられています。薬王院仁王門の各柱間寸法は、桁行中央の間2.43m、仁王像を安置する両端間1.82m、桁行全長6.07mとなります。
梁間(奥行き)は二間で、一間の寸法は桁行両端間と同じ1.82m、梁間長3.64mです。柱間の平面形は、左右前後ともに対称となっています。この柱を含む構造材には、弁柄が塗布されています。
寄棟造の屋根は、かつて厚さ3mmほどの板を重ねて葺いた柿葺でしたが、現在は柿葺型銅版葺となっています。
仁王門の建立年代を示す直接の資料はありませんが、金剛力士像胎内から発見された修理銘板の記載内容と建築様式から、17世紀後半から18世紀前半頃に建立されたと推定されています。
運慶作とされる仁王像(八尺・那羅延金剛力士、密迹金剛力士の仁王像)が安置されています。
執金剛神とも呼ばれ、仏法を守護する神です。金剛杵をもって常に持衛するため金剛手とも言います。 忿怒形で上半身裸形が多く、鎌倉期に多くの傑作が作られたようです。
寺門の左右に安置されるものは、口を開けた阿形(あぎょう)と、口を閉じた吽形(うんぎょう)であり、ともに勇猛・威嚇の相をとっています。
薬王院大本堂
仁王門のすぐ正面にあるのが七間四面の薬王院本堂です。「高尾山」の額がすぐ眼に入ります。この額は小松宮殿下の筆です。堂内の中央には護摩壇が設けられており、護摩供が奉修されます。
大本堂正面には立派な注連縄(所謂しめなわ)が下がっています。
そして、この大本堂そのものも神社風です。神仏習合の雰囲気が漂っています。
不動、座像不動(弘法大師作といわれている)が安置され、その各側には本尊の大日如来座像と左右に不動と愛染像が並んでいます。
明治34年(1901)に、八王子大工棟梁小町小三郎により建築されたものです。
薬王院は、鎌倉時代までは寺の名前からも推察できるように薬師如来がご本尊でした。飯縄大権現は中興のご本尊ということになります。
八大龍王堂
現在の第32世隆玄貫首の発願により創建された堂宇で、平成5年11月建立、堂内に八大龍王をまつるものです。この八大龍王は、仏教を守護する天龍八部衆の一つである龍族で、難蛇(なんだ)龍王・跋難蛇(ばつなんだ)龍王・沙竭羅(しゃから)龍王・和修吉(わしゅきつ)龍王・徳叉迦(とくしゃか)龍王・阿那婆達多(あなばだった)龍王・摩那斯(まなし)龍王・憂鉢羅(うはつら)龍王の八王をいいます。
龍は架空の動物であるが、空中を自在に駆け、雲を巻き、雨を降らせる魔力を持ち、雨乞い信仰に結びつき、水神、龍神、海神と同一視されている。
龍神はインドに生まれ、中国に渡って仏法を守る八大龍王となり、朝鮮を経て日本に渡来したもの(「日本の神々を知る事典」より)で、中国の龍王信仰が我国でも水・海を司る神として信仰されたと思われます。
さて、八大龍王は、釈尊が霊鷲山(りょうじゅうせん)で法華経を説かれた時、その場で教えを聞いていたとされており、また、沙竭羅龍王の八才の娘が、法華経の教えを聞いてたちどころに成仏したという話は、龍女成仏として有名です。
龍王は大海に住んで、雲を呼び雨を降らせる神力をもっていると考えられ、祈雨や止雨の祈願の神として信仰を集めています。その中でも沙伽羅が雨乞いの神として深く信仰され、弘法大師が京都神泉苑で八大竜王に祈って雨乞いを
し、雨を降らせたという有名な説話も残っています。
また、八大竜王は役行者ともゆかりが深く、埼玉県秩父市の今宮神社や奈良
県天川村の龍泉寺は、役行者が八大竜王を祀った地であるとされています。
愛染堂
八大龍王堂と同じく、薬王院の第三十二世隆玄貫首の発願で建立されたのが愛染堂。平成6年12月建立。
この愛染堂には全身深紅の愛染明王がガラスケースに祀られているがほとんど御開帳されています。
愛情や情欲の仏様で、「煩悩即菩提」の教えのご本尊です。
愛情や情欲を癒す仏様というわけです。六本の手(六臂=ろっぴ)に武器と法具を持ち、獅子の冠を被っている。
また、愛染明王の真言(呪文) 「オン マカラギャ バゾロウシュニシャ バザラサトバ ジャクウン バンコク」を30万回唱えると、どんな相手からも愛されるようになるといわれています。
愛染明王への祈願は、色を染めるということから昔から八王子の染屋の組合や水商売の業界の方にも「高尾の愛染さん」といって信心されたようです。
この愛染さんにまつわる昔話は、いつくか伝えられていますが、こんな話があります。
「昔、高尾の山下にお春さんという、少々不細工な娘さんがおったそうです。気持ちのいい子で、年寄りにも親切だったのですが、少々口下手なのと、自分の容姿に自信がないためか、いつも伏せ目がちなので、参道の娘さんたちのなかでは、見劣りする娘だったそうだ。
そんなわけで、ついぞ縁談の話もあがってこなかったそうだ。
あるとき、いつも親切にしてもらっている年寄りが、愛染さんの話をして、ぜひお参りすることをすすめたそうだ。
その娘は、もともと信心深い娘であったので、それは、熱心に愛染さん参りを続けたそうだ。
すると、いつも伏せ目がちで猫背であった娘が、しゃきっと姿勢も正しくなり、それにつれて気もしゃんとしてきたら、なんと器量も少しずつ美しくなっていくではないですか。
とうとう、八王子でも有名な美しい娘となり、良家に嫁入りしたそうだ。愛染参りは、美しくなれる。そんな話が伝わり、若い娘さんたちで愛染参りは、はやっていったそうだ。」
このように良縁成就、縁結びに霊験あらたかとかで、薬王院のお守りのなかでも若者を中心に人気なのが、この縁結びのお守り。
鈴がついたお守りとご縁があるようにと赤い糸のついたきれいに磨かれた5円硬貨が一組になっているものです。
鈴のついたお守りは、いつでも自分の身につけておき、また5円硬貨のほうは、この愛染堂に自分の意中の人とうまくいきますようにと願いを込めて結んでおくとか。さてさて、御利益のほどはいかに。
和合歓喜天堂
愛染明王のお堂の隣には、歓喜天が祀られたお堂があります。
愛の神様・歓喜天は聖天・ガネーシアの別名を持ち、恋愛をはじめ様々なご利益があると有名です。
歓喜天は、ふたりでひとつの神様(仏様)ですが、本当の神仏は、牙の折れた象頭の女神です。
こちらは十一面観音の化身とされています。そしてもう一方は実は神ではなく毘那夜迦王、むしろ「魔物」です。
毘那夜迦王が疫病をはやらせ人々を苦しめているのをみて心を痛めた十一面観音が毘那夜迦王の前に現れた際、その毘那夜迦王と同じ姿の美女に化けました。
ところがその姿を見たとたんその美女を好きになってしまってしまいます。夢中になった毘那夜迦王は、抱かせてくれと要求します。
すると、観音の化身である美女は、祟りを止め、仏法を守護する善神になると誓うのなら、抱いてもよいと答える。
毘那夜迦王は、それを約束し、観音の化身の美女を抱き、仏教に帰依し善神となったのでした。
このふたつの生き物が抱擁する姿が、この仏法守護神たる歓喜天です。二体で抱き合っている場合は必ずどちらかが相手の足を踏んでおり、踏んでいる方は十一面観音、踏まれている方が歓喜天です。
このように夫婦の仏が抱き合った姿をしたもので、男女が抱き合うストレートな表現から、縁結びや夫婦和合、子授けの御利益があると云われています。高尾山では「和合歓喜天」と名づけられていますから、やはり夫婦和合が特に祈られているのでしょう。
江戸時代に、この大聖歓喜天の信仰が流行し、いわゆる「聖天さん」として民衆に親しまれるようになった。
この神様は非常に気難しく凶暴なせいもあってか一般に秘仏中の秘仏とされ、霊験あらたかで、一心に祈れば他の神仏では到底きいて貰えないような無茶な願い事もかなえてくれるといいます。
救うべきものを救うのが通常の神様ですが、悪人の願いでも成就させるのが歓喜天と言われています。しかし、賞罰ともに凄まじく、ご利益が強力なぶん、祟りもきつく、約束を守らない者には、容赦ない罰を与えると言います。だから、この仏は生半可な気持ちでは奉らぬ方が良いといいます。
倶利伽羅堂
八大龍王堂と同じく、現在の第32世隆玄貫首の発願により創建された堂宇で、平成9年建立。除災招福などの御利益あり。
不動明王の剣を挟んで2頭の龍が絡んでいる像は、龍が交尾をしている姿と言われています。
薬王院で授与されている縁結びのお守りに入っている赤い紐は、良縁が結ばれることを祈願して倶利伽羅堂に結ぶようになっています。
倶利伽羅堂には恋みくじも置かれています。
納札堂
四天王門をくぐり、お守り授与所がある場所の手前辺りに『納札堂』があり、古いお札やお守りを返納することができます。お堂の中には剣を持った烏天狗もお祀りされています。
古い御札を納めて祈願成就を感謝します。
正月ともなれば、皆さんから持ちよられた古い御札で、いっぱいになります。
なお、6月には高尾山山麓の自動車祈祷殿広場にて納札供養柴燈大護摩供(のうさつくようさいとうだいごまく)が行われます。これは、お役が終り、高尾山に納められた古くなった護摩札、お守りを高尾山自動車祈祷殿広場の柴燈護摩壇(さいとうごまだん)においてお焚きあげをして、御本尊・飯縄大権現(いづなだいごんげん)の御加護に感謝する行事です。
大本坊・黒門
御本堂の下、横の道を行くと大本坊です。大本坊入口にある大きな杉に抱かれるようにして建つ黒門は僧侶専用で、寛政10年の建立、一般の方は通行できません。ほら貝の音を響かせながら、護摩修行のため大本堂に向かう僧侶の一行に出会うこともあります。
昭和4年、高尾山の火災の時に、全焼。黒門は火が移るのを避けるために倒されたことがあるそうです。現在の姿に完成したのは、昭和46年になってからです。
大本坊は、客殿、書院、方丈殿などを含めた総称で、貫首、僧侶の執務室や修行者などの修行、宿泊施設です。大本坊の正面には大きな天狗面がかけられています。
大本坊入って正面の大きな建物は客殿です。宿泊と研修をするための建物で、絵画展示や演奏会などの催しはここで行われます。
四天王門
昭和59年は、弘法大師空海が高野山に入定して1150年にあたり、また高尾山薬王院は空海の縁のある寺であったことから、記念事業として山門の建立が企画されました。
江戸時代に建立された山門と同様の形で、四天王門は、三間一尺の八脚門、重層入母屋造り、桜門形式で、屋根は瓦棒型銅板葺という木造総檜造の立派な山門が建立されたのでした。
設計は白川設計事務所があたり、施行は間組が行っており、間口8m、奥行6m、高さ12mとなっています。加えて、境内結界守護の神として持国天王、増長天王、広目天王、多門天王の四天王奉安されました。
製作には、東京造形大学の大成浩先生があたり、芸大教授の西村公朝先生が監修され、青銅製(ブロンズ)に金箔を押した見事な姿が、約4年の歳月をかけて完成し、この年の落慶法要を迎えたのでした。総高が3.3m、像高2.7m、一体の平均の重さは約500kgとなっています。
富士浅間社
北条氏康によって天文年間、高尾山に富士浅間大菩薩が勧請された。現在、奥之院不動堂(明治中期、旧薬師堂脇の護摩堂を移築)の裏に奉安される富士浅間社がこれである。
今の社殿は大正十五年に再建されたものであるが、この小社こそかつての高尾山奥之院そのものであったと伝えられる。江戸時代から奥の院不動堂、浅間社、大天狗小天狗社三社が鎮座され、奥の院三社とされていた。
富士浅間社は小さな堂宇ですが、破風の彫刻などを見ると非常に優れた技術によって建てられています。
現在は不動堂と浅間社が鎮座しており、高尾山の富士信仰の拠り所となっています。浅間神社は富士信仰が大きく影響しており、富士山を目指す富士道の重要な拠点となっていました。富士山を詣でる昔の人々は、まず大山に詣でてから旅をするため、高尾山を通っていました。
まず高尾山から富士山や大山を遙拝してから出かけるのですが、高尾山には今でも大山道の一部が残っているのです。
なお、この富士浅間社の横に、取っ手が付いた大きな石が置かれていて「不動石」と書かれてあります。
不動堂
薬師信仰と飯縄信仰の霊山として名高い高尾山薬王院有喜寺には、数多くの堂守が建立されています。不動堂は、それらの諸堂の中でも一番奥まった急峻な尾根上に建立されています。
もともとは現本堂の位置にあった護摩堂を明治43年頃に移築し、不動堂としたものです。不動堂は宝形造(平面形が正方形または八角形で、屋根面が一つの頂点に集まる建造物)、四周に高欄を備えた縁をめぐらし、東側に桁行一間(2.17m)の向拝を設けています。
内部の床は拭板張り仕上げで、正面と両側面側が畳敷となっています。平成13年に修理が完了し、外周の柱・縁・建具等は、彩やかな赤漆の色彩が甦りました。建立年代を示す資料はありませんが、建築様式から17世紀後半頃に建立されたと推定されています。
堂内の奥側には、二本の来迎柱を建て、その前に堂と同時代といわれる附の須弥壇が置かれ、室町時代以前の作といわれる「木造不動明王及び二童子立像」 (都指定有形文化財)が安置されています。(説明版より転記)
天狗社
天狗は飯縄大権現様の眷属(随身)として、除災開運、災厄消除、招福万来など、衆生救済の利益を施す力を持ち、古来より神通力をもつとされ、多くの天狗伝説や天狗信仰があり、神格化されています。
ここは、ご本尊・飯縄大権現の眷属(随身)として高尾山を守る天狗をまつる社。
社の傍らには、草履、下駄、雪駄、運動靴などが奉納され、天狗のように足腰が丈夫になって欲しいとの庶民の願いが込められている。
福徳稲荷社
飯縄権現社の向かって左傍らには小さな社がある。屋根は入母屋形式で、正面には軒唐破風を付した作りで、小さいながらも極彩色の社殿です。
平成10年11月、御本社飯縄権現堂とともに修復した。福徳稲荷には荼枳尼天(ダキニテン)という白狐に乗る天女の姿の女神様が祀られています。
商売繁盛のご利益あらたかで、2月の初午の日には稲荷祭が 開かれ多数の参拝客が訪れます。社の前には奉納された狐がいっぱい並んでいます。
豊穣や火伏せ(火防)の神様としても信仰されていました。 平安時代には恋愛成就の神様でもありました。鳥居の上に小石を放り投げて上手く乗ると願いが叶うと言われています。
修行大師堂
修行中の弘法大師にあやかり、学業成就、合格祈願の祈願木を納めてお願いする修行大師堂はいつも受験生たちでいっぱいです。
修行大師堂では、ご祈願木に願い事と名前を書いて納めて祈願するそうです。
修行大師堂に、たこの英語オクトパスにちなんで「置くとパス」で、合格祈願のたこの置物がありました。たこを持ち上げて、「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」と唱えて祈念して、またもとの場所に置いて祈願するそうです。それにしても、たこはoctopusで、パスはpassで、英語だとスペルも全然違っているわけで、この英語力で合格できるのかやや不安になりますが、おやじギャグの範囲ですかね。
飛飯縄堂
大本堂に向かって左側、飯縄権現堂に向かう階段の途中にあります。天保7年(1836)の古地図でもほぼ同位置に描かれています。堂内にある小石をなでると、できもの、はれもの、いぼ等が取れるという信仰があります。
ところで、JR日野駅のプラットホームを南の端に歩いて行くと、東側に坂上神社と御影石の鳥居が、見え隠れしますが、伝説によれば、この飯縄神社(現在は坂上神社に合祀)から高尾山に飛んできたという伝説があります。
また幕末に薬王院が火災に見舞われた際に一時退避すべく火の玉となって日野まで飛んでいったなどという「飛び飯縄伝承」があります。
尚、日野の飯縄神社と高尾山薬王院との関係は明治末まで続いていたということです。日野の飯縄神社の文政10年4月3日の棟札には、表に「奉再興飯縄社一宇」と「縄」の文字が使ってあり、裏には「遷宮導師高尾山薬王院住第廿世大僧都法印岳純」とあります。日野を訪れる機会があれば、そちらの飯縄神社にも是非お参りしてみてください。
穴弁天
本坊裏手には、洞穴内に弁財天を奉ってあります。もともとここにはいつの頃からか弁財天が祀られていたのですが、いつの間にか失われしまったそうです。それを憂いた第二十七世範秀大僧正が昭和天皇即位を記念して彫刻奉安、平成11年4月に修復を完了したものです。
洞窟は狭くて背をかがめて入れるくらいで約3mほどです。以前はローソク1本でこの洞窟を入っていくと40メートルほど先にひっそりとこの弁財天の像が祀ってあり拝めたのですが、平成16(2004)年に崩落し、柵で仕切られているため、現在のように3mしか奥にすすめなくなり、その像は今は拝めません。
この弁天様は立ち姿で琵琶を弾いておりました。そこでこの柵前に代わって新しい弁天像が祀られるようになりました。
こちらは八臂(腕が八本)に宝珠・宝棒・宝箭(矢)・宝刀・宝弓などを持った勇ましいお姿です。
暗い洞窟内で拝見する弁天様は、少々恐ろしくもあります。また、この洞窟内以外に外にも弁天様にお会いできます。入口に向かって左に鎮座している弁天様はやや現代的な美人です。
弁財天は元はインドの古代神話に登場するサラスバティというインダス川の神様です。サラスバティは「水を持つもの」と訳されます。
したがって池や川など水のある所にまつられます。確かに祠の手前には小さな湧き水があり、ここでお金を洗うとそれが増える、いわゆる「銭洗い弁天」となっています。
高尾山自然保護委員会が、2004年末に調べたところによるとこの弁天洞の湧き水は、電導度25という純度だったいうので驚きです。
通常、水道水で 120~150、山の湧き水は70~100と言われていますから、その純度がわかろうというものです。
一般に弁財天といえば、七福神の中の紅一点として有名ですし、商売繁盛と技芸上達と決まっていますが、こちらの弁天様は解説板によれば「福徳円満」、「平等利益」などのご利益があるそうです
。
神変堂
高尾山薬王院への参道の中ほど、霊気満山と額がかかった山門そばの神変堂は、昭和44年に改築されたが、入母屋造りの銅板平葺。神変大菩薩の額の文字は元総理大臣故佐藤栄作氏によるものです。
堂内には山岳修験の祖である「神変大菩薩 役小角」が安置されている。 また、神変堂の前には役小角に従った鬼の夫婦である妙童鬼=前鬼、善童鬼=後鬼が守っている。
修験道の創始者として知られる役行者は、舒明天皇6年(634)元日、大和国葛木上郡茅原の郷賀茂役氏の娘 白専女(母)と問賀介麿(父)との間に生まれ、吉野の金峰山で霊感を得て呪術を身につけたといわれています。
前鬼、後鬼の二鬼神を自在に働かせることができたと言います。吉野の大峰山(おおみねさん)を開き、修験道の伝説的な開祖であり、役小角(えんのおずぬ)とも言います。
あまりの力量をまわりにうとんじられて八丈に遠流の身となっても、夜な夜な海を越えて街に繰り出しては朝帰りを繰り返し、ついには、年老いた母を背負っていづことなく去っていったといいます。
高尾山薬王院は、古来より山岳宗教の修験道として発展してきた証として、その開祖である役行者、つまり神変大菩薩が祭られているのです。
琵琶滝不動堂
6号路へと通じる琵琶滝道を下ると見えてくるのが、琵琶滝不動堂。脇の落差約4mの琵琶滝では滝行も行われます。宝形造、銅板平葺で明治末期に棟梁小町小三郎により再建されたといわれる。
堂内には御本尊不動明王が安置されている。
蛇滝青龍堂
裏高尾のバス停「蛇滝口」から入る蛇滝路を登り、突き当たりに修行場と青龍堂があります。
入母屋造で、昭和33年再建、棟梁は峰尾忠三、鈴木広吉で、堂内には御本尊の青龍大権現が安置されている。
青龍大権現は沙伽羅(しゃから=沙迦羅、沙竭羅とも)竜王の八歳になる第三女といわれています。父である沙伽羅竜王は1号路の四天王門をくぐると右に立っています。
なお、なお、滝行は、今では困難な修行をしなくても瀧行が経験できるように、水行道場として一般に開放をしている。申し込んだ後、所定の料金と指導を受けた後に瀧行を経験できるという。
別院不動院
高尾山への表参道入口右にある。現在の建物は昭和63年に再建のもの。
入母屋造り、玄関は軒唐破風形式、銅板平葺き。
別院不動院では、毎月第4土曜日を中心に月例写経会を開催。一文字一文字、真剣に写経をしているうちに心が落ち着き、日常を忘れて自分を見つめ直せます。また、無心に筆を運ぶことで悩みやもやもやとした気持ちが解消され、前向きな気分になることも期待できます。考え事がまとまらない時は、仏様に頼るのも一手かも。
仏舎利塔
男坂戸女坂の合流する地点に挟まれた小高い丘に仏舎利塔が建っています。昭和6年、日本少年団がタイ国を訪問した際に、親善のために贈られた釈迦の遺骨が納められています。タイの仏塔様式に基づいて建てられたため、珍しいデザインをしています。
この仏舎利塔に向かう道の左右にある赤い胸当てをかけた22体の石仏は、四国88か所の札所の本尊を彫り寄進されたものという。台座には寺の名前が刻まれている。
仏舎利塔の周りは、百体の観音像で囲まれています。