高尾山の観光ガイド
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高尾駅南側を歩いてみましょう
みころも霊堂
高尾山の玄関口、JR・京王高尾駅に降り立つと異様な建物が目に留まります。金色に輝くパゴダ風のその建造物は、見る人によっては、ロケットだとか、三度笠とか、とにかく何だろうという気にさせます。
この建物は、初沢町と狭間町にまたがる風致公園「御衣公園」内にそそりたっています。
この建物の正体は、労働福祉事業団が労働省と協議し、労働災害保険法施行20周年記念行事として、国費、民間有志の協力により産業災害により殉職された方の御霊をお慰めするため1972年(昭和47年)に開堂した慰霊堂「みころも霊堂」です。
広告大手、電通の新入社員で2015年クリスマスに過労自殺した高橋まつりさん(当時24)の遺骨の一部もこの「高尾みころも霊堂」に安置されているそうです。
高橋まつりさんの母が語った言葉が今も胸に刺さる。「命より大切な仕事はない」。労働行政に関わる政治家や官僚は一度、霊堂を訪れ、故人と向き合ってほしい。
開堂以来、毎年秋に各都道府県の遺族代表をはじめ政財界、労働団体の代表等をお招きし、産業殉職者合祀慰霊式を挙行するほか、多彩 な行事を催し、御霊をお慰めしています。
また、慰霊式には霊堂が建立された昭和47年を初めとして5年ごとに、皇太子同妃両殿下の御臨席を仰いでいるとのことです。
あわせて納骨堂の機能も有しており、10万柱の納骨が可能です。(合祀殉職者総数 195,224名(平成12年殉職者3,437名含む) 納骨状況(平成14年3月末現在)5,709体(殉職者3,328体、一般 2,381体))
建設延べ面積:3,296平方メートル、建物は鉄骨鉄筋コンクリート造り地下1階 地上11階建てで高さ45m(相輪頂部まで65メートルのパゴタ風の建物)3階はテラス、4~8階納骨堂、9階祭祀室、10階展望台、11階拝殿となっています。
拝殿は、この霊堂のシンボルゾーンであって、ここには産業殉職者のかたがたの霊位が奉安され、永遠の灯がともされて、殉職者の御霊を光明の世界に導いています。
拝殿の裏側には、「天地」像、「日光」「月光」の両像が安置されており、絵画「静進(あゆみ)」と「曙光」掲げられております。天地像は、日本芸術院会員晝間弘先生の作、悠久の宇宙を象徴しています。日光、月光像は、二紀会審査員滝川毘堂先生の作で絶えることのない慈悲を象徴しております。
絵画「静進(あゆみ)」は「曙光」とともに院展会員月岡栄貴画伯の作品、 「静進(あゆみ)」は現在を、「曙光」は過去を象徴しています。
祭祀室は、御遺族のかたがたが慰霊を行われる場合の利便を考えて設けられたものです。
仏教のかたがたのために、「釈迦如来」と「阿弥陀如来」の二つの仏壇が設けられています。
神道のかたがたのために、神殿を設けてあります。
キリスト教の祭壇は、キリスト誕生にちなみ馬小屋がデザインされ、正面には鉄製の十字架が、壁には鳩が表されています。
菅原道真公の像
高尾山の玄関口、JR・京王の高尾山駅のほど近く初沢町の御衣(みころも)公園には菅原道真公の高さ4.8m、重量6000kgのブロンズ像がある。
八王子市内におかれた初めてのブロンズ像ですが、ここには深い歴史があるのです。
もともと菅原道真公は我が国の文神として昔から崇敬されてきたが、この文神像の建設計画が起こったのは、大正10年のこと。
大正天皇は特に天満宮に御信仰があり、宮城前には楠木正成公、桃山御陵前には乃木将軍の像があることもあったので、大正陵には文神様がふさわしいとして文神様像を多摩御陵近くに建設することに決まった。しかし、寄付で賄っていた資金が底をつき、計画は挫折。結局、作者の渡部氏がまた自ら工事を進め、同地の山口安兵衛氏より土地を寄贈してもらい、昭和11年12月28日に除幕式を行うことができた。
菅原道真は、「東風吹かば にほひおこせよ うめのはな あるじなしとて 春なわすれそ」でも有名なように梅の花がたいそう好きだったようで、みころも公園には梅ノ木が植えられました。ちなみに「御衣公園」のみころもは、菅原道真が詠んだ「九月十日」という漢詩にある「恩賜の御衣いまここにあり」という一文からとったものです。
高尾天神社
高尾天神社は、浅川中学校の栗山の土手の上、御衣(みころも)公園 の一角にある菅原道真公をお祀りする神社です。
そもそもこの公園は、1936(昭和11)年に町の素封家が土地を寄贈してつくられた公園です。
そして、この「みころも」とは、道真の漢詩の一節「恩賜の御衣いまここにあり」からとられたとのこと。
高尾天神社の建物は、その後1983年に出来ましたが、勧請は1995年1月25日といいますから、それほど古いものではありません。
神社の儀式として、大晦日には大祓、除夜祭、お炊き上げ、元旦から3日にかけては合同進学祈願が執り行われます。
なお、高尾天神社の裏から初沢山に登ることができます。
高楽寺
独峰山高楽寺は,横穴石仏群(よこあな せきぶつぐん)で有名です。八王子市の史跡にも指定されています。本堂の裏側の切り立った丘の側面に、約30mの洞窟に三十三観音と薬師如来などの石仏があります。見学は随時可能ですが入口に鍵がかかっているので事前に連絡が必要です。
高楽寺は、高尾山薬王院の末寺で、寺伝によると天明年間(1781~89)に住職の発願で、浄財を投じて五穀豊穣・悪病平癒祈願のため、独力で本堂裏の洞窟を掘り石仏を安置したとされています。
左側正面には弁財天、毘沙門天、不動明王、そして右側正面には薬師如来が安置されています。また横穴右には寄進者からの33体の観音像が並んでいます。
場所は、JR高尾駅南口から東(八王子方向)に向かい、町田街道との交差点の消防署(浅川出張所)を南へ。最初の右斜めの道に入り200mぐらい行き突き当たりを右へ左手に桜の上部が見えてきます。
この樹齢百年を超えるしだれ桜は、夜ライトアップされとても美しい光景で、高尾の有名な花見スポットにもなっています。別名「姫桜」と称し、その由来という、笠をかぶったお姫様という喩えは、まさにそもものです
大光寺
高尾駅南口からJRに沿って相模湖方面に向かうと、ほどなく大光寺の境内が見えてきます。京王線のホームから桜が見える事でも有名だ。駅前にあるにもかかわらず、とても緑の多い広い敷地のお寺で、静かで落ち着いた雰囲気です。
弘法大師霊場「多摩四国八十八ケ所霊場第七十番札所」である大光寺のご本尊は阿弥陀如来で、寺史によれば、創建は、元和元年(1615)高尾山の九世源恵によるもの。古文書によれば、およそ百九十年前、天明五年(1785)4月、中興第六世憲善上人によれば、「本堂畳、九十一畳」「境内に杉、さわら五、六千本余り」「備金百二十五両とある」。大南院より五石、以下常憲院、有徳院、惇徳院、浚明院、文恭院、煩徳院、温恭院、昭徳院、明徳院、より九通の御朱印状と御朱印地を賜ったという往時の隆盛のさまがうかがい知れる。
明治5年(1882)11月出火し、本堂、庫裏等すべて焼失したが、庫裏は清水次郎長の客分で、高尾出身の関東綱五郎の旧宅を移築している。
講談でも人気の関東綱五郎は、現在の高尾町(旧字:落合)に生まれる。親戚とのいざこざが原因で、旅のわらじを履くようになったと言われいますが荒神山では、博打がもとで起きた喧嘩に、大政、小政らと乗り込みます。
清水の次郎長の子分を経て、京都で火薬商を営み、成功を収めた時期もあったようですが晩年は故郷に戻って暮らして明治19年(1886年)に亡くなっています。お墓も、この大光寺にあります。
ところでこの庫裡、内部は刀を振り回せないように、梁の高さが五尺五寸程度のしかない場所もありますし、壁がどんでん返しになっている所もあったりと、様々な工夫がされていたようです。
高尾山との関係は深く、明治15年の火災で大伽藍を焼失した際も薬王院の護摩堂を移築するといった協力もあったようです。また、本堂は明治34(1901年)10月14日に、高尾山薬王院第九世源恵上人(当山開基)の創建になる薬師堂と山門(現存)を、金百両高尾山に奉納し、移築し本堂として再興しました。その後老朽化しため昭和51年に地下1階客殿、地上1階本堂が新造されました。
弘法大師入唐1200年を記念して、平成15年11月に、四国八十八ヶ所遍礼お砂踏み場を開かれた。隔年に10月21一日に大祭を行っていて、多くの参詣者の方々で賑わっています。境内には大きな桜の木が数本あり、しだれ桜は約四百年ぐらいの樹齢を持ち、毎年三月中旬過ぎに咲き、関東でも特に早くに開花している。
境内の3本はそれぞれに咲く時期がちがうようですが、夜はライトアップされ、「高尾三大夜桜」の1つにも数えられて道行く人の目を楽しませてくれます。
また、寺院の敷地内には、至る所にカエルが置いてあります。これらは、住職が皆様を六カエル(迎える)という意味を込め、配置しているもの。また、六カエルには、「無事にカエル」「幸福がカエル」「円満がカエル」「 幸せがカエル」「三福がカエル」「お金がカエル」という意味も込めてあるそうです。
浅川地下壕
浅川地下壕とは、アジア・太平洋戦争末期、陸軍の計画によってJR高尾駅に近い八王子市の金比羅山、初沢山の山中に掘られた大地下壕です。
浅川地下壕の秘話はこちら
大本営移転候補地として1944年9月から敗戦までの1年近くにわたって朝鮮人労働者や陸軍工兵隊員らの手によって掘り続けられたとされている碁盤の目のように縦横に走る壕の総延長は10kmに及ぶ。掘削は、東海道本線・丹茄トンネルの何工事を完遂した2~300人が陣頭に立ち、そして土砂の排除や資材の運搬に動員された人員は、5000人とも7000人とも言われる。
高尾駅前から甲州街道を南西に1.5キロ行ったところの「落合地区」に加え、その東「初沢地区」を結んだ線(イ地区)を最大の壕とし、やや着工が遅れた「金毘羅山下」(ロ地区)、そして「浅川中学校裏山」(ハ地区)が掘削地として指定された。
最近、この地下工場の研究をされている都立高校の先生が、同工場の地上にあった従業員宿舎や工場の配置図を見つけられたと話題になった。
当初は「倉庫」という名目で工事が始まったが、一時中断の後、飛行機のエンジンをつくる工場を移転させる目的で工事が進められた。
45年4月から、現在の武蔵野市にあった中島飛行機武蔵製作所が、空襲にあったため、陸軍が当時掘削工事をしていたこの地下壕に疎開地下工場を組み込み、軍用機のエンジンがその中で作られた。この工場では、地上、地下をあわせ3~4千人が働いていたとされている。
そもそも中島飛行機は、1917年に設立された飛行機のメーカーで、いわゆる「ゼロ戦」(零式艦上戦闘機)をはじめ旧海軍や旧陸軍の戦闘機を3万機以上生産した実績を持っている。しかしこの地下工場の稼動は、終戦までの約3ヶ月間。丁度厳冬期にあたり壕内は低温多湿で火の気もなく、換気さえも喚起は不充分で体調を崩す者が続出したという。
計画では、月産500機をもくろんでいたものの、地下工場だけに湿気が多く、工作機械が頻繁に壊れるなどして結果的に作ったのは10機とされている。
浅川地下壕の詳細はこちら
高乗寺
高尾駅南口から初沢橋を渡り、突き当たりを左折、しばらく道なりに進んでいくと広大な高尾霊園の敷地に入る。東京都八王子市初沢町の高乗寺は,寺伝によると開基は、応永元(1394)年3月、片倉城主 永井大膳大夫高乗公。開山は臨済宗の法光円融禅師俊翁令山(しゅんおう
れいざん)和尚とされます。
創建当時は、整った伽藍と境内地を有していましたが令山禅師が八王子市山田町広園寺を開山し、そこへ移られると荒廃してしまい,半世紀後、曹洞宗の空海禅如が諸国を巡錫中に、この伽藍の荒廃に嘆き、長禄元(1457)年に現在地に移りました。
当初は臨済宗でしたが,永正2(1505)年に曹洞宗の寺院として中興開山しました。
弘治3年(1557)に書かれた高乗寺絵図を見ると相当の面積をもった寺であり、隣接する浅川中学校正門前には、「高乗寺総門跡」の碑がたっていることからも広大な境内であったと推測されます。
尚、寺紋は毛利家のもので、毛利家の系譜 大江広元公の降下 永井家の系譜によると、本国片倉城主永井大膳大夫高乗(広秀)公がその創立に深く係わっているためで、開山堂に
高乗寺開基として位牌が祀られています。
その戒名は高乗寺殿大海道廣大禅定門”となっており、高乗寺の寺名はここから由来しているといわれています。
また、寺にある八王子千人同心頭窪田氏の墓は、江戸時代初期のものとされる立派なもので、何故か直しても江戸の方面へ向きを変えるという伝説がある。そういえば、少し斜めになっているような気がしなくもない。またここには寺山修司の墓がある。
尚、寺の南にある高尾霊園は,昭和40(1965)年に寺所有地内に開設されたものです。
浅川金毘羅神
JR高尾駅下車、南口に出てすぐ、浅川中学の横に「金毘羅山登山口」の標識がすぐに見つかります。ここから山道となり、矢野学園フェンス沿いに15分ほども登ると、山頂にたどり着きます。この山頂に金毘羅神社があります。
約400年前の開山で、その後、八王子城の砦として北条氏によって見張りの兵が置かれていたようです。
甲斐から関東を窺う武田氏を警戒するために築かれた砦のひとつで、すぐ南には初沢城、北には廿里砦が配置され八王子城を固めていたと思われます。
その後、砦は廃止され、江戸時代に入り全国に金毘羅信仰が流行った頃、山頂に祠が設けられて神社となったようです。
第二次大戦中には弾除けの祈願をする軍人の家族も多かったようです。というのもこの神社で祈願すると強運に恵まれるという信仰があったからです。
社殿の屋根裏から数年前「成就山」と言う山号が入った看板が発見され、以来、「成就山浅川金毘羅大権現」と称しています。
また、数年前に社殿が何者かに放火され、一時は存続の危機にありましたが、地元の方や信者や金毘羅山の自然を守ろうと立ち上がった方々の熱心な活動のおかげで、復興しました。