菅原道真公と高尾山の意外な関係高尾通信

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学問の神様菅原道真公と高尾山の意外な関係

菅原道真の像 高尾山の麓、初沢町の御衣公園には菅原道真公の高さ4.8m、重量6000kgのブロンズ像があります。台東区・上野恩賜公園の西郷隆盛像(高さ3・7メートル)より、ひとまわり大きいようです。八王子市内におかれた初めてのブロンズ像ですが、ここには深い歴史がありました。

 もともと菅原道真公は我が国の文神として昔から崇敬されてきたのですが、この文神像の建設計画が起こったのは、大正10年のことでした。
 当時の予算で35万円が計上され、制作は中央区・日本橋の獅子と麒麟のブロンズ像を手がけたことなどで知られる彫刻家の渡辺長男氏に委嘱されたのです。 

 大正12年の春、原型は完成したのですがその年の9月の大震災で計画は中止されたのです。
 昭和5年、鋳造半ばで放置された文神像を心痛く思った作者はひとりでこの鋳造を続行、完成させたのです。
 その翌年の昭和6年のこと、多摩大正天皇陵御治定記念事業の発議が起こったのでした。

高尾天神社 大正天皇は特に天満宮に御信仰があり、宮城前には楠木正成公、桃山御陵前には乃木将軍の像があることもあったので、大正陵には文神様がふさわしいとして文神様像を多摩御陵近くに建設することに決まったのでした。

 しかし、寄付で賄っていた資金が底をつき、計画は挫折。約4年もの間、同市の浅川小学校に放置されていたのです。
 結局、作者の渡辺氏がまた自ら工事を進め、私財を投じて地元住民と協力しながら今の場所に建設。昭和11年12月28日に除幕式を行うことができたのです。
 その後、戦時中の供出も免れたのでした。
 もともとの建設予定地が多摩御陵だったため、像の目線が陵を向いているという説もあるといいます。

 さて、それでは菅原道真公ってどんな人だったのでしょうか。

 天神様が学問の神様、受験の神様であることを知らない日本人はいないでしょう。
 菅原家は古代豪族の土師氏の出身で、代々学者の家柄で知られ、道真公の曾祖父古人公が、土師を菅原と改姓するとともに、文道をもって朝廷に仕える家柄となったといわれています。
 時代は、嵯峨天皇の時代を頂点として、「文書経国」すなわち学問を盛んにして国をつくるという方針のもと、高尾天神社唐風の文化の最盛期を迎えていました。
 道真の父是善は菅家廊下(菅原家の私立大学)を率いる当代第一の学者であり、後に文章博士、参議(閣僚)を勤めました。

 菅原道真は845年、是善の三男として、京都菅原院に生まれます。わずか5歳で和歌を詠み、10歳を過ぎて漢詩を創作し、神童と称されました。14歳の時に詠んだ詩は、当時の第一級の詩歌を載せた『和漢朗詠集』に採用されている。 

  18歳で式部省の実施する文章生、23歳で文章得業生、文章得業生の合格最年少記録を作り、数年に一人という超難関の国家試験である方略試に若冠26歳で合格、エリート官僚への道に進む。外国使節の接待などを担当する役所の次官となり、渤海国使節団の接待で頭角を現すのです。
 30歳で従5位下に任じられ、貴族に列せられるのです。
 この頃、島田宣来子を妻に迎え、兵部少補(軍務省次官)、民部少補(大蔵省次官)を歴任します。
 
 彼は税制や経済にも通じていました。33歳の時、式部少補に転じ、文章博士も兼ねます。式部少補は国家の礼儀・儀式・文官任用・人事考課を司る式部省の次官、文章博士は学者の最高位です。
 文章博士は大学で、学問を教授するほか、国家試験の試験官もつとめたため、学閥間の争いに直面しなければならなかったのです。
 道真の背後には、菅家廊下の門人達が中央官僚として活躍しており、ここから出た秀才や進士は100名にのぼり、世に「竜門」と呼ばれました。
  41歳の時、大国である讃岐守(香川県知事)に任じられたが、従4位以下では異例のことです。
 しかも赴任の際には太政大臣藤原基経や光孝天皇の拝謁を賜っている。
 また国司としての任務の他に、地方の庶民の実状を調査する問民苦使としての任務を兼ねました。慈父のごとき善政を行い住民に慕われたのです。

 当時、大化の改新から続いた律令制は財政的に破綻しつつあり、根本的な改革を行う必要に迫られていました。
 当世第一の学者であり、優秀な行政官僚でもあった道真はまさに中央政府の期待の星だったのです。

 京へ戻ると宇多天皇の厚い信任を受け、蔵人頭などの政治の中心で活躍しました。
 50歳の時には、唐の国情不安と文化の衰退を理由に遣唐使停止を建議し、中国に渡ることはありませんでした。
 55歳で右大臣、そして、ついに、延喜元年1月7日、藤原時平とともに従二位に叙せられました。

 しかし、その直後、急転して大宰府左遷となりました。
 左遷の劣悪の環境のなかで健康を損ない、道真公を京で待っているはずの夫人の死去の知らせが届くと、ますます病は重くなり、延喜3年(903)2月25日、なくなりました。
 京より追従してきた門弟の味酒安行(うまさけやすゆき)が牛車に乗せ、当時の安楽寺に運び、墓の上に祠を建立、これが太宰府天満宮の起こりとなります。

 その後京の都に異変が続きます。
 道真が死んだその年から立て続けに大雨による水害や旱魃が繰り返されるようになり、極端な気候変化の結果として飢饉や疫病が多発し多くの人が死んだのです。
 皇太子の急逝・宮中への落雷・天候不順などが続き、道真の祟りによるものと認識されたのです。
 単なる自然現象なのだが人々はこれを「天神・道真」の仕業であるとしたのでした。
 この時、道真追い落としに関わった人間が立て続けに変死をとげたわけだが、死後30年以上も経過して起きた異変も全て「道真の崇り」と信じられていたのです。
 最終的に天神・道真の崇り騒動が落ち着くのは993年。朝廷は道真を正一位左大臣にし、同年太政大臣にまで昇格させ、続いて1004年、一条天皇自ら北野神社に参詣し道真の霊に非礼を謝したのでした。
 この後、道真の怨霊はなりをひそめるが、彼の死後実に100年もの間朝廷を脅かし続けたのです。

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