高尾山の雑学・豆知識

ホーム > 高尾山の雑学・豆知識 >太平洋戦争末期 浅川地下壕秘話


太平洋戦争末期 浅川地下壕秘話

 JR高尾駅から南西方向へ数百メートル~1キロほどの金比羅山、初沢山の山中に、巨大トンネルが広がっている。先の大戦末期、軍用機エンジンの“地下工場”として旧陸軍が突貫工事で掘削した「浅川地下壕(ごう)」だ。現在の三和団地から高乗寺にかけての地下一帯に張り巡らされている。初期の計画では、ここが大本営になる予定だったが、それは1944年5月に信州(松代)に変更された。
 松代の地下壕が3箇所合わせて10kmなのに、ここは一つの地下壕だけで10kmを超す。全国に500以上あるとされる地下壕の中でも、松代に次ぐ日本最大級の地下壕だ

 1944年7月、陸軍は大本営移転候補地として米軍による本土空襲や本土決戦に備えて兵器や軍需品などの備蓄施設をこの南多摩郡浅川町に建設することを計画した。すでにサイパン・グアムなどのマリアナ諸島が壊滅し、本土上陸が避けられない状況になっていたころである。

 浅川地下壕が掘られたのは、昭和19(1944)年9月から20年8月にかけて。零戦、隼など陸海軍機のエンジンを作っていた中島飛行機武蔵製作所(武蔵野市)(いまのSUBARU)を空襲から避難させるため、東高尾山の中腹地下をくりぬいた「イ地区」、金比羅山や三和団地の地下の「ロ地区」、初沢山の中腹地下の「ハ地区」の3つが掘削された。
 壕内は高さが2、3メートル、横幅は4・5メートル程度。最も規模が大きいイ地区は全長約4・2キロで、未完成で使われなかったロ、ハ地区を合わせると総延長は10キロを超えるという。長野市の松代大本営地下壕と並び、戦時中に掘られた地下壕では屈指の規模だ

 この地下壕工事はもちろん東京では最大級のものであり、当初、陸軍東部軍経理部が施主となり、工事は鉄道建設興業へと発注してはじめられた。鉄道建設興業の下で工事を請け負ったのは佐藤工業であり、その下に敗戦までの1年近くにわたって朝鮮人労働者や陸軍工兵隊員らの手によって掘り続けられた。その労働対価としては、実際に掘削に関わった労働者には、日に白米7合、運搬その他は白米3合のほか麦やトウモロコシが配られたと記録がある。
 碁盤の目のように縦横に走る壕は、全体は発破工法で作られている。これだけの規模のものを爆破しながら作っていった技術は当時の日本の掘削技術の高さを物語っているようだ。
 
 当初は備蓄庫の目的で掘られたが、その後東京への空襲が激しくなり、中島飛行機武蔵工場が被害を受けるなかで、この浅川の地下施設は中島飛行機武蔵工場の地下工場として利用されることになった。

 1945年2月には第一期工事である落合のイ地区工事が完成し、工作機を据え付けて発動機生産がはじまった。さらに第二期工事がおこなわれ、イ地区の整備・拡充、金比羅山のロ地区、初沢山のハ地区の掘削などがすすめられた。この工事でロ地区は佐藤工業が、ハ地区では新たに大倉土木が請け負った。
 敗戦のその日まで、掘削工事は続いたが、戦後は機械類だけが運び出され、地下壕は埋め戻されることなく、そのまま残された。
 秘密に掘られた地下壕の存在は、一部が公表されただけで、表に出ることなく、1989年に団地や学校の工事が始まって、大きな陥没事故から公になった。

 最近、この地下工場の研究をされている都立高校の先生が、同工場の地上にあった従業員宿舎や工場の配置図を見つけられたと話題になった。地下壕は、イ地区、ロ地区、ハ地区と3ブロックが建設されたが、諸般の事情で内部が公開されているのはイ地区のみである。

 完成部分イ地区では中島飛行機武蔵製作所第1製造廠として、エンジンが作られたという。
 45年4月から、現在の武蔵野市にあった中島飛行機武蔵製作所が、空襲にあったため、陸軍が当時掘削工事をしていたこの地下壕に疎開地下工場を組み込み、軍用機のエンジンがその中で作られた。この工場では、地上、地下をあわせ3~4千人が働いていたとされている。

 そもそも中島飛行機は、1917年に設立された飛行機のメーカーで、いわゆる「ゼロ戦」(零式艦上戦闘機)をはじめ旧海軍や旧陸軍の戦闘機を3万機以上生産した実績を持っている。
 しかしこの地下工場の稼動は、終戦までの約3ヶ月間。計画では、月産500機をもくろんでいたものの、地下工場だけに湿気が多く、工作機械が頻繁に壊れるなどして結果的に作ったのは10機とされている。工作機械は錆びるばかりで、毎朝の作業開始時は、そのさびを落とすことが日課だったという。

 戦後すぐにアメリカ軍が接収、資材をほとんどすべて運び出したそうです。その後は廃墟となり民間業者の所有となったようです。そこが「陸軍参謀本部跡」として有料で公開したそうですが、危険ということで八王子市の要請により閉鎖されました。その後は一時マッシュルーム栽培やワイン貯蔵を試みたそうですが、ワインは一晩で数千本盗まれてやめてしまったとか。その残骸も残されています。また、中には東大地震研の測定器もある。

 その後、1990年代後半にあったオウム真理教によるテロ事件の影響により、鉄格子が各所につけられて閉鎖されました 
 ロ地区は現在、史跡としての保存活動はしているが、住宅地として造成され、補強のため埋めもどしている。
 ハ地区は一ヵ所だけ京王高尾線の高尾と高尾山口間の線路脇に入り口こそ残っているものの、崩落の可能性が高く、現在は安全確保のため、鉄柵で閉鎖されている(写真)。

 近年、私立学校の移転計画に伴い、90年9月、地下壕の一部が破壊されることをおそれた市民からこの戦時下の遺構を平和史跡として残そうという請願が八王子市議会に提出されたことがある。
 
 また、地下壕を文化財へ登録することを目指して1997年から活動している「浅川地下壕の保存をすすめる会」は毎月見学会を開催するなど、市民に戦争の歴史を伝え続けている。
 活動により2014年、地下壕のある金比羅山が八王子市の市有地になるなどの成果を挙げた。これによって開発が食い止められ、文化財に一歩近づいた。二度とあの悲惨な戦争を起こさぬようその語り部としての保存が望まれる。

フィ-ルドワ-ク浅川地下壕 学び・調べ・考えよう [ 浅川地下壕の保存をすすめる会 ]

豆知識目次に戻る

おすすめコンテンツ