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高尾駅の歴史

 高尾山の玄関口、一見、二重の破風をもつ神社の拝殿かと見まがうばかりの純和風づくりの駅舎が、JR中央線高尾駅です。それもそのはず、この駅舎は大正天皇大葬の際、柩を送り出すため新宿御苑内に造られた仮停車場を、昭和2年(1927)に移築したものなのです。

 白壁に黒基調の柱、また屋根の鬼瓦と懸魚、 蟇股まで見られる小振りながら重厚なつくりのこの駅舎は、関東地方で最も和風の駅舎だといいます。
 設計は鉄道省建築課の曾田甚蔵。規模は木造平屋建てで間口41.5メートル、奥行6.9メートルで、延べ298平米。その後、増改築が行われているが、外観は当時のままです。

 大正天皇が静養先の葉山御用邸で崩御されたのは、大正15(1926)年12月25日午前1時25分のことで、47歳でした。 
 大正天皇は、その在位期間の短さによって、生涯病弱だったと一般的にはとらえられていますが、近年の研究によって、後年病に侵されるまでは、精力的に近代国家の君主として活動していたことがわかっています。

 さて、「大喪儀」は、昭和2年2月7日新宿御苑、8日陵所で行われ、「御陵所」を武蔵陵墓地「多摩陵」とすることになります。ちなみに東京に御陵所が置かれたのは大正天皇陵が初めてです。
 棺の移送のための停車場として新宿御苑仮停車場が整備されることとなりました。大喪列車(霊柩列車)は昭和2年2月8日午前0時15分新宿御苑仮停車場発、東浅川仮停車場1時35分着で運転されました。
 新宿御苑仮停車場の一度しか使われることのない駅舎の建設に猶予はなかったのですが、鉄道省の資料によると仮停車場の工事着手は1月4日、竣工は1月20日となっています。ということは工事期間はたった16日ということになります。
 
 さて、大喪儀が終われば、新宿御苑仮停車場も不要となるわけです。2月8日をもって停車場は廃止し、撤去することとなります。そのためこの駅舎を、明治38(1901)年に開業している浅川停車場(現・高尾駅)改築に使用することとして、そちらに移設したのでした。

 浅川停車場は東浅川仮停車場のひとつ先の停車場で、この駅を降りて自動車で多摩御陵に参拝する場合もあったためです。これが現在の高尾駅なのです。

 なお、東浅川仮停車場のほうは、2月8日限り一旦廃止とされますが、その後さらに仮停車場としてその設備を存続し、乗降場、待合室などの一部を撤去したのち1年間必要のつど随時使用することと定められたのです。実際のところその後、皇族が武蔵陵墓地を参拝する際に使用され、昭和26(1951)年には貞明皇后(大正天皇妃)の葬儀にも利用されました。

 しかし隣の浅川停車場の利用が増え、自動車での参拝も増えたことから、次第に使用されることが少なくなり昭和35(1960)年に廃止されます。廃止後は八王子市の施設として使用されていたが、1990年焼失。現在は駅前ロータリーにその面影が残っている程度です。

 さて、この高尾駅ですが、現在は中央線で南北が分断されており、南北両口を行き来するには入場券を購入して構内を通るか、駅東側の町田街道もしくは駅西側の初沢踏切を大きく迂回するしかありません。八王子城に行くためには北口から出るのがよいのに間違って南口から出たら大変です。みころも霊堂にいきたいのに北口から出たら大回りです。このため以前から多くの方により自由通路の設置要望が寄せられていました。
 そこで、ようやく念願かなって南北自由通路の整備、北口駅前広場を3倍近くに拡大し北口バスロータリーの整備が始まりました。
 これに伴い文化財的価値のある現在の高尾駅駅舎は「東浅川保健福祉センター第2駐車場用地」に移築され保存されることとなりました。移築先は高尾駅から東に約1.5キロ、国道20号(甲州街道)、多摩御陵入口交差点(甲州街道から陵南公園への入り口)の南側に位置しており、そうです、前述の大正天皇の大喪列車の終着駅として東浅川駅が設置されていた場所です。
 皆さんが高尾を訪れる際には、ひょっとしたら移築後でこの美しい駅舎を見ることができなくなっているかもしれませんね。

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