高尾山の開祖 行基菩薩の不思議高尾通信

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高尾山の開祖 行基菩薩の不思議

 歴史は寺伝によると、天平16年(744年)聖武天皇の勅願により、行基菩薩が薬師如来の像を刻み安置し、高尾山を開基したとされています。
 この行基菩薩は、不思議な経歴の持ち主でもありますので、この項ではこれをご紹介します。

 行基は667年(天智7年)に河内国大鳥郡(大阪府堺市)の出身で、苗字を「高志(こし)」と称しました。高志氏は百済系渡来氏族であり、行基はその末裔にあたります。

 682年(天武11年)に15歳で、法相宗の僧「道昭」に師事する形で出家しています。
 道昭は653年(白雉4年)に定恵・道観(粟田真人)らと共に遣唐使として唐に渡っており、中国では「玄奘三蔵法師」(西遊記で皆さんよくご存じでしょう)に師事して教えを学んでいます。
 玄奘三蔵法師の教えとは、西洋などから流入した最新の技術(土木・造船など)を用いて慈悲をもって慈善事業を行うことです。
 道昭はこの三蔵法師から最新の技術と慈悲の精神を学んで日本へ帰国しています。従って、道昭の弟子である行基も同様に慈悲の精神とともに最先端の技術を学んでいるはずです。

 ところで、奈良時代の当時、「僧尼令(そうにりょう)」という法律により自らが居する寺院以外での社会貢献活動や、民間への布教活動を禁止していました。

 しかし行基はこの禁を破り、近畿地方(畿内)を中心に民衆に仏教の教えを説き、さらに溜め池や橋、困窮者救済施設の造営など数々の社会事業を行なったのです。
 こうして1つの地域でひと仕事を終えると、再び巡行の旅に出てこれを繰り返しながら日本中を歩き回り民衆から称賛され、やがて日本国の救世主になっていきます。

 しかし、これがどうも朝廷は気に入らない。そこで、朝廷は「僧尼令」に反して民衆を扇動する、民衆を惑わす妖僧とされ、その布教活動を弾圧するのでした。

 しかし、それでも行基は聞く耳をいっさ持たず、社会貢献活動や布教活動を続けるのです。
 律令制の下、民衆は調庸といった租税の納付や役民として役務が命ぜられると、その義務を果たすために、自前の食料で都との間を往復する必要があったことから、飢えや病に苦しみ途中で行き倒れる者が多数生じました。
 そのため、行基は、利他行の実践のために布施屋と呼ばれる福祉施設を建て、食事や宿泊を提供し民衆の救済を図りました。
 また、利他行を布教する傍ら、教えを実践するために、豪族からの資本提供のもと、農業用の池や溝を掘り、道を拓き、橋を架けるなど、民衆を率いて土木事業を進めていきました。
 
 民に尽くす行基の姿を民衆は神仏の所業のように感じ、行基を崇敬する「信者」は増加の一途をたどり、ついに行基は世論の力を背に付けることになり、このような行基の社会事業は、やがて朝廷も認めるところとなっていきました。
 次第に行基への弾圧が容易にできなくなって行くことになるのです。

 そのころ、743年、天然痘の流行、天候不順による飢饉(食糧不足)や地震災害、政争等相次ぐ社会不安の高まりから、聖武天皇は、国家の安定を願い「盧舎那仏造営の詔」を発しました。「皆が幸せになるために毎日3回大仏を拝み感謝の気持ちを忘れないでほしい」というのです。
 しかし、大仏の造営には莫大な資金が必要となりますが、これが全く足りません。また、人手が足りず、大仏造立が全く進まなかったのです。
 ここで朝廷は「ある妙案」を思きます。この事業に世論の力を得た行基を利用しようと大仏造営の勧進役に行基が起用されました。「勧進」とは、布教活動、社会的活動を行い、その過程で資金集め(浄財)をする役職のことです。
 莫大な費用を調達し、多くの人夫を集めて行う一大公共事業を担えるのは、行基をおいて他にはいないと判断されたと考えられています。

 やがて資金も集まり、満を持したところで745年、聖武天皇は行基を宮中へ招聘し、日本で初めて僧侶の最高位である「大僧正(だいそうじょう)」の位を授けられ、官僧の頂点に立つこととなりました。
 結局、東大寺の大仏が完成するまでに9年の歳月がかかり752年に完成しましたが、行基が亡くなったのは749年。つまり、行基は東大寺の大仏の完成を見る前に亡くなってしまったのです。
 
 死後も行基は「行基さん」と民衆から慕われ続け、行基が亡くなった749年の「続日本紀」には、彼が果たした業績や恩恵等から「行基菩薩」と記録されているなど、やがて「菩薩」・「文殊菩薩」の生まれ変わりとして崇められ、日本全国に「行基信仰」が成立していったのです。
 菩薩とは仏教の仏様の位のことで、自分のためだけでなく、他人の利益になることも考えつつ修行する人のことをいいます。
 行基の残した様々な足跡は古代における民の力を活用したインフラ整備の事例として、時を越え我々に語り継がれることとなりました。

 さて、話を戻して高尾山ですが、本当に行基が、高尾山に登ったかどうかは疑問視する人も多いようです。
 前述のとおり、寺の縁起によれば、「天平16年(744年)聖武天皇の勅願により、行基菩薩が薬師如来の像を刻み安置し、高尾山を開基」というのですが、そうなると行基は76歳で、亡くなる5年ほど前に高尾山に来たことになるのです。
 実は行基は幾内をほとんど出なか った考えている専門家もいます。

 それにしても全国に行基伝説が残っているのは、堤や橋など庶民生活に与えた 影響が大きかったためでしょう。なお、薬王院の名は創建当初、御本尊薬師如来を安置したことに由来します。

(参考文献)
井上薫(1997)「行基事典」国書刊行会
吉田靖雄(1987)「行基と律令国家」吉川弘文館
長部日出雄(2004)「仏教と資本主義」新潮新書
吉田久一(2004)「新・日本社会事業の歴史」勁草書房

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