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世紀の大悪人? 大久保長安の謎

 能役者から徳川幕府の勘定奉行、老中に昇りつめた異色の人物。 通称は藤十郎、十兵衛。おもな官位は従五位下石見守。

 大久保長安(おおくぼ-ながやす、ちょうあん)は、猿楽(現在の能)師・大蔵太夫十郎信安の次男として1545年に奈良にて生まれたとされる。

 長安の祖父は大和国春日神社で奉仕する猿楽金春流の猿楽師で、父の信安の時代に播磨国大蔵に流れて大蔵流を創始したとされている。ただ、長安の両親については不明な点が多く、一説には秦氏の子孫だったともいわれ、確かなことは分からない

 父・兄(大蔵新之丞)と共に猿楽師(能)として甲斐を訪れると、武田信玄に気に入られて、兄と共にお抱えの猿楽師となる。
 やがて、官吏としての能力を認められた大蔵長安は、武田家の譜代家老・土屋昌続の与力にくわえられて、土屋長安と改名し、蔵前衆となった。このころから蔵前衆組頭・田辺太郎左衛門に師事し、治水対策などを習得したとされる。

 また、黒川金山などの鉱山開発、税務や司法などにも従事し、有事の際には後方での兵站や補給を担当した。このように大久保長安は本来武勇の人ではなく、裏方で活躍していた。

 武田勝頼が長篠で敗れ、1582年(天正10)に織田と徳川の連合軍に滅ぼされた後は、駿河に行き、大久保忠隣の寵愛を受けて大久保姓を授かり大久保十兵衛と称し、徳川家康に推挙されます。徳川家康に仕え、検地や徴税などの地方巧者として能力を認められます。
 大久保長安は自ら家康公に謁見した時、「自分こそ天下一の産金技術を持つ人物」として売り込んだといわれている

 1590年、豊臣秀吉の小田原攻めのあと、徳川家康が関東移封となると、伊奈忠次、青山忠成、彦坂元正らと共に奉行に就任し、土地台帳の作成などを行なった。これは徳川家康が家臣団に関東の所領を分配する際に、大変役に立ったと言われている。

 関東250万石のうち、100万石は徳川家康の直轄領となり、大久保長安は彦坂元正、青山忠次と共に関東代官頭として、直轄領の管理を任された。

 1591年には武蔵・八王子で8000石となり、八王子千人同心と言う武田遺臣を中心とした下級武士組織も管轄した。
 まずは、八王子城の落城直後に、武田旧臣257名を八王子に移住させ、浪人250名を募集した八王子五百人同心であったが、1599年に徳川家康の許可を取り、更に500名募集して八王子千人同心となっている。

 八王子に入った大久保長安は、八王子宿に陣屋を置き、宿場の発展に努め、浅川の堤防工事も行うことになる。石見守長安の名から「石見土手」と地元では呼ばれた。
 また、八王子の街整備を行い、甲州街道(現在の国道20号の旧道)を直線にし、追分にて高尾山方面に35度左折している原型ができた。

 陣屋(大久保石見守長安陣屋跡)の西に八王子千人同心の屋敷を設けており、甲州街道における江戸城防備の要衝であることが考慮されている。

 また、武田の旧臣が多い八王子千人同心の「心」のよりどころとして武田信玄の次男・武田信道や、娘・松姫なども保護している。

 1600年、石田三成との関ヶ原の戦いでは、青山忠次と共に徳川秀忠勢の後方支援を務めたあと、徳川家の直轄となった佐渡金山や生野銀山などの管理も任されます。

 1600年9月には大和代官、10月には石見銀山検分役、11月になると佐渡金山接収役、1601年春には甲斐奉行、8月に石見奉行、9月には美濃代官と目まぐるしく行動し、伊奈忠次らと東海道の整備を行い宿場を整え、徳川支配を確実なものとした。

 特に、徳川家が石見銀山を直轄することになった慶長6年(1601)8月、初代銀山奉行となり、その卓越した知識と経営的手腕によって、江戸時代初期のシルバーラッシュをもたらしたことで知られています。

 このように長安の採掘・精錬技術により 初期幕府財政は大いに潤ったと言える。彼の採掘法は、従来の竪穴堀にかわる横穴堀にあり、この工法は側(脇)坑道によって存分に排水できるので、従来の廃坑を生き返らせる事が出来、その上、“水銀流し”という技術によって、鉱石の洗浄、蒸留の方法に特別な手法を施す、イスパニアの宣教師から学んだアマルガム法を採用していた。長安は正式なキリシタンではなかったようですが、鉱山発掘技術を持つキリシタンには寛容で当然親交もあったのでしょう


 
 1603年2月12日、徳川家康が征夷大将軍となると、大久保長安は外様であるながら異例の従五位下石見守となり、徳川家康の6男・松平忠輝の附家老まで出世した。

 1603年7月には佐渡奉行、12月には所務奉行(勘定奉行)となり、徳川幕府の年寄となり、関東の街道整備や一里塚の設置など行っており、一里=三十六町、一町=六十間、一間=六尺という間尺も制定した。

 1606年2月には伊豆奉行にも任じられ、湧水に苦しめられることが多かった縦堀から、排水が容易である横堀に変えて、産出量のアップに成功している。

 1607年には、角倉了以を京から招いて、富士川の開発を行っている。

 一方、大久保長安は正室である下間頼龍の娘と、継室とにる大久保忠為の娘などとの間に、7人子を設けており、石川康長や池田輝政の娘と結婚させた。
 また、松平忠輝と伊達政宗の長女・五郎八姫の結婚をまとめるなど、伊達政宗とも親交を築き、その権勢や諸大名にも繋がる人脈から「天下の総代官」と称され、家康からの寵愛を受け続けた。一説には120万石を支配したともいわれ、長安の財力・権勢には並ぶものがなかったといわれている

 ただ幕府は決して一枚岩ではなく、長安の存在を快く思っていない人物も存在していた。 
 その筆頭にあげられるのが、本多正信で、やがて大久保一派と本多一派は権力争いをするようになりました。
 家康から気に入られていた長安だが、晩年は鉱山の金銀採掘量が減った事もあり、美濃代官をはじめ代官職を次々と罷免されていくようになり、少しずつ家康から遠ざけられるようになりました。
 そして、大久保長安は、失意のうちに1613年4月25日、駿府屋敷にて中風(梅毒とも)にて病死した。享年69。
 
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 さらに、長安の不幸は続く。大久保長安の死後は、長年対立していた本多正信と本多正純が巻き返しを図り、1613年5月、生前に長安が金山の統轄権を隠れ蓑に不正蓄財したと言う理由で、徳川家康は大久保長安の7人の男子を全員処刑。一族は連座し、縁戚関係にあった諸大名も改易されるなどした。
 さらに、7月9日に家康は埋葬されて半ば腐敗していた長安の遺体を掘り起こして、駿府城下の安倍川の川原で斬首して、晒し首にしているのだ。(大久保長安事件)

 鉱山奉行としては鉱山の経費・人件費は奉行が負担する代わりに、四分六分として、幕府側が四分、大久保長安が六分を収入としていたが、それを密かに虚偽の報告をしたと言う疑惑を持たれたのだ。
 また、大久保長安は「金の棺に自分の遺体を入れて甲斐に送り、国中の僧侶を集めて葬儀を華麗に執り行うように」と遺言を残していたのを徳川家康が知るところとなる。
 駿府町奉行の彦坂光正が調査を行い、収賄の罪で大久保長安の腹心である戸田藤左衛門、雨宮忠長、原孫次郎、山村良勝、山田藤右衛門らを逮捕し、葬儀は中止された。

 小田原城主・大久保忠隣らも失脚したが、大久保長安の屋敷からは金銀が発見されたと言い、一説には70万両の蓄財があったとされる。
 しかし長安が不正蓄財を行っていたという証拠はほとんどなく、近年では幕府内における権勢を盛り返そうと図っていた本多正信・正純父子の陰謀であるとか、不正を行う代官への見せしめとも、徳川恩顧の本多家への配慮とも言われている。

 また、一説では、大久保長安は徳川家康より伊達政宗のほうが天下人にふさわしいと考えており、伊達政宗の幕府転覆計画に賛同していたり、松平忠輝は政宗公の娘婿かつキリシタンですし、当時30万人はいたとされるキリシタンを先導して松平忠輝を将軍にしようと言う噂や、屋敷の床下からスペインや明との手紙が出て、明の兵士を日本に攻め入らせて勝利したら、大久保長安を関白にするなどの計画があったとも言われているが、いずれにしても謀反の信憑性は低いとされる。
 また、間近にひかえた大阪の陣に対する内部引き締めに利用された感じがあります。 

 長安の墓は甲府市の尊躰寺にある

(参考資料)童門冬二「江戸管理社会 反骨者列伝


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