海に面していないのに甲州海道高尾通信

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海に面していないのに甲州海道?

 現在、甲州街道といえば国道20号のことをさしてしまうが、「甲州街道」は、1601年(慶長6)に江戸幕府により宿駅・伝馬制度が整備された5街道の1つです。

 当初は、江戸内藤新宿から甲州石和まで表街道38駅でしたが、甲府から下諏訪までの裏街道6駅がその後1610年(慶長15)中山道と合流する下諏訪まで延長され、全行程五三里十町余(320km)となった。当初は、他の四街道に比べて道筋の整備がなされていなかったという。
 しかし幕府の直轄地である甲府に甲州金の金座が置かれ貨幣の鋳造が行われるようになると、街道は経済上、軍事上、重要な交通路となっていった。

 平成15年6月、甲州街道(国道20号)と陣馬街道の分岐点となっている追分交差点に、江戸時代の道標(どうひょう)が復元された。
 この道標は、1811(文化8)年、江戸で足袋屋を営む商人清八が、高尾山に銅製の五重塔を奉納した記念に、江戸から高尾山までの分岐点に建てた三つのうちの一つだという。(八王子市教育委員会)
 清八は高尾山の信者で時には自ら「講」を組織して多くの人を引き連れては高尾山に登拝したという。

 長く追分にあったが、第2次世界大戦中の八王子空襲で破損した為、台座部分は地元町会が、中ほどの約70センチ程の石柱は市郷土資料館が保管していたが、今回、高さ約2・4メートルの石柱の道標を復元するため地元の追分町会の要望を受け、国土交通省相武国道工事事務所が、これら別々に保管してあった部分をあわせて復元した。

 甲州街道に面した側面に「甲州道中高尾道」、陣馬街道側には通称の「あんげ道」の文字が彫り込んである。陣馬街道は、和田峠へ登って武州案下へ通じていたことから、案下道ともいわれ、あるいは陣馬山にちなみ陣馬道とも呼ばれてた。
 尚、甲州街道も当初は「甲州海道」と呼ばれていたが、海に面していないことから、その後「甲州道中」そして「甲州街道」と改名されたという。

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