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高尾山薬王院は寺それとも神社? 神仏習合の不思議

 高尾山には「神仏習合」の様子がよくわかる薬王院があります。
高尾山薬王院
 神仏習合とは、日本に元来あった神様の信仰である神道と、外国からやってきた仏教の信仰がひとつになった宗教の考え方で、奈良時代に始まったものです。

 薬王院は、正式には真言宗智山派のお寺で、立派な本堂があるのですが、ここに祀られるご本尊様は、神道の飯綱権現という神様です。
 ところが本堂から階段を上ったところにある立派な極彩色の本社は、飯綱権現神社なのです。
 しかし、本堂のご本尊様と飯綱権現神社の本社では、神前読経が行われているのです。神前読高尾山薬王院本堂経とは、その名の通り、神様の前でお経を読むことです。神社であれば普通は神主さんが祝詞を読みますよね。薬王院では僧侶が真言宗のお経を神様にあげているのです。

 そういえば、本堂には、神社で見かけるしめ縄がかかげてあり、立派な赤い鳥居がある一方で、境内にはお寺で見られる鐘楼が建てられています。
 いったい、高尾山薬王院はお寺なのでしょうか?それとも神社なのでしょうか?

 冒頭で申し上げたように「神仏習合」とは、日本固有の八百万の神々に対する信仰と、外来宗教である仏教信仰とを共存させた信仰体系です。
高尾山薬王院鳥居
 実は、世界に目を転じてみても、世界でも仏教が広まった際、その土着の信仰と仏教との間に起こった現象もあり、合わせて「神仏混淆」とも呼ばれることもあります。

 日本では古くより、人間を取り巻く自然界の全てのものには「神」が宿ると信じられており、威厳ある山々、大岩、大木、清らかな川や滝などの自然物を神宿るものとして祀りました。

 そして、このような祀りの場所には建物が建てられ、これを「神社」と称しました。
こうした神社を中心とする日本の神々への信仰が、後に「神道」と呼ばれるものになったのでした。

 ところが6世紀後半になるとインド、中国、朝鮮半島を経由して仏教が伝来します。ご存じの通り仏教はインドの釈迦を開祖として説かれた教えです。修行し悟りをひらいた者は仏になるという教えです。
高尾山薬王院
 もともと神道では、八百万というように多数の神様がおられるわけですから、新たな仏教をすんなりと受け入れられました。

 どのように神仏が習合していくのかは、地方によって、時代によって色々です。
一度習合すればそれで終わりではなく、時代が変われば、神仏習合の形は変化します。

 神仏習合思想のさきがけとして位置づけられるのが、8世紀ごろに現れた思想「神身離脱説」です。

神様も民衆と同じように迷える衆生の一人なのである。仏の救済を望んでいるのである。苦しみから逃れ悟りを開きたいと願っているのである。という考え方です。

 この説は主に仏教側から生まれました。この思想から、神を解脱に導くため神社の境内や隣や裏山などに神宮寺が造営されていきました。そこで神様が修行をするということになるわけですね。
 そして神宮寺では、神前で経典を読む「神前読経」が行われていたのです。

 神身離脱説が浸透していくと、今度は「護法善神説」も派生しました。
善なる神が、仏法を守護するのである。神社は寺院の鎮守なのである。「護法善神」という考え方です。

 高尾山薬王院の山門に立っている金剛力士や四天王は、元々はバラモン教やヒンドゥー教の神々であり、護法神として仏教に迎え入れられた神々なのです。日本古来の神々も、護法神として加わっていきます。

 護法善神説に基づいて、お寺の境内にする前からいた土着の神や、お寺の開祖に縁のある神が招かれて、お寺の守護神として仰がれるようになりました。
「神身離脱」で、一旦、神の地位が下がったのですが、「護法善神」により再び神の地位が上がったように見えますね。

 奈良時代終わりごろから神と仏は徐々に融合・調和されていき、10世紀になると、本地垂迹説が成立します。この「本地垂迹説」によって、神仏習合の到達点に達します。神と仏は同一・一体なのであるという説です。

 日本の神は実は仏の仮の姿なのであるという考え方になっていきます。
仏陀や菩薩が、仮の神の姿になって垂迹するという「本地垂迹説」が生れ,神は権現と呼ばれるようになりました。
 「本地」とは仏菩薩が本当の姿であり、「垂迹」とは神に仮身するという意味です。(「権」は「仮」という意味で、「権現」は「権(仮)に現れる」という意味)
神々は仏菩薩の権化(仮の姿)であり、仏菩薩が衆生を救うために、日本の神に化身してこの世に現われた、というのです。

 天照大神は大日如来で、須佐之男尊は熊野権現であり阿弥陀如来である。伊邪那岐尊は釈迦如来で、伊弉冉尊は千手観音。また、大国主命は大黒天で、市杵嶋姫命は弁財天・・・などなど。

 神々は同時に仏や菩薩でもあると考えられると神祠と仏堂が混在して祀られることは自然なことでした。
 神社の敷地内に寺院があり、また寺院の中にも神道の神様を祀る神社がありました。鳥居のあるお寺、三重塔や五重塔のある神社などもありました。

 このように、神仏習合の形態は、江戸時代の終わりまで続きました。

 日本の人々の間に千年以上も続いた神仏習合の慣習を排除し、神道と仏教、神と仏、神社と寺院とをはっきり区別させることを「神仏分離」といいます。

 明治時代に入ると、明治政府は明治維新の政治的理想であった「王政復古」「祭政一致」の指針を掲げます。
 そしてその理想実現のため神道国教化への方針を採用し、具体的な政策へと進んで行きます。

 この神仏分離政策は、「神仏判然の令」によって具体化されていきます。
 全国の神仏習合神社から仏教色がすべて排除されましたが、地方の神社では過激な神仏分離が多発したため、太政官は明治4年には、神仏分離の実施には慎重を期すよう命じました。

 しかし、政府の意向は末までは行き届かず、地方の各藩や政府直轄地では、地方の役人がこれを無視して強硬な抑圧・廃仏策を推し進めたため、寺院の統廃合など神仏分離を超えた廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)とよばれる事態が明治7年ごろまで続くのでした。

 このように多くの神社や寺院が神仏分離令や廃仏毀釈運動によって破壊され、焼却されたりしましたが、幸いにも廃仏毀釈運動を逃れて、江戸時代以前の神仏習合時の姿を残す寺院が今でもあります。
 そのひとつがここ高尾山薬王院ということになります。

 神社なのにお寺のようだな、とか、逆にお寺なのに神社みたいだな、と感じたら、それは神仏習合の影響を受けているのかもしれません

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