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中山勘解由の武勇

 豊臣秀吉の関東進出に際し、八王子城に総攻撃を仕掛けたのが、前田利家と上杉景勝の大軍です。

 そして、天正18年(1590年)6月23日前田上杉の豊臣連合軍は力攻めによる殲滅作戦を展開,城内の婦女子は自刃し,御主殿の滝に身を投げ滝は3日3晩血に染まったと言い伝えられています。

 八王子城は1日にして落城し、両軍合わせて多数の死者が出たと言われています。このとき八王子城の城主、北条氏政の弟、北条氏照以下家臣は小田原本城に駆けつけており氏照に代わり、八王子城を守っていたのが中山勘解由家範でした。

 中山勘解由家範は、馬術や槍の名手といわれる武勇の士だったようで、過去にも数々の手柄を立てています。
 八王子城の攻撃に当たった敵将をして「見事な戦いぶり、一騎当千の勇者だ。死なせてはならない。」と前田利家、上杉景勝の降伏勧告の使いを家範の下へ向かわせましたが、頑強に拒否し、果敢に身を挺してすばらしい戦いを繰り返した後、覚悟の上、最後のときを知った家範は、二人の男児と妻を斬って、自身も自刃して果ててしまいました。

 八王子城陥落の13日後、北条小田原城は、ついに降伏し秀吉の全国制覇がなりました。そのときの中山勘解由家範のすばらしい武勇を聞いた徳川家康は、家臣とともに落ち延びていた家範の二人の子供たちを探し出し、家康の小姓に召し抱えました。

 勘解由家範の長男が中山照守(当時21歳)で、照守の「照」は主君氏照の「照」を賜ったものでしたが、家康、秀忠にもよく仕え、1600年関が原の際には、徳川秀忠に従い、上田合戦(第2次上田城の戦い)にて上田七本槍に数えられる働きをするのでした。

 中山照守は父・弟と共に高麗八条流馬術に優れており、徳川秀忠に馬術を教授。のちに3代将軍・徳川家光にも手ほどきしたのでした。
 1614年大阪冬・夏の陣にも貴重な実戦経験がある武将として従軍し、子の中山直定とともに参戦。得意の馬術で戦功を挙げて500石を加増となり、後に1000石加増され、目付として肥後国熊本に巡察として赴きます。1632年に鑓奉行となり、最終的に3500石の大身旗本・御旗奉行となった。
 次男が信吉(当時15歳)で、徳川家康の小姓となり、中山の近郷宅貫を采地(1500石)として与えられ、1603年に伏見城にて、刀を盗む賊徒を捕らえた功や、駿府城大火時における徳川頼房救出などの功により、徳川家康の厚い信頼を得たようで、徳川家康の11男・徳川頼房が下妻10万石に配されるに伴い、徳川頼房の養育と補佐に抜擢され家老(6500石)に任じられたのでした。

 徳川頼房が水戸転封となると1万5000石に加増され、1616年3月26日には、従五位下備前守に叙任。1621年には今度は、2万石に加増。翌1622年、常陸松岡(現在の茨城県高萩市)を居館を構え、水戸徳川家の付家老(筆頭家老)として常陸松岡藩2万6千石となったのです。

 その後、後水戸徳川頼房の養育と補佐に当たり、更にその子光圀を水戸家第2代の藩主に推挙しました。

 さて、八王子城に向う道を途中右に曲る狭い道がありその道を進むと北条氏照とその家臣の墓(供養塔)があります。
 この氏照の供養塔は百回忌追善の際建立したものです。両脇は中山勘解由家範および中山信治の墓です。中山信治は中山勘解由家範の孫で水戸藩家老中山備前守信治です。

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