高尾山に心打たれた文学者たち高尾通信

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高尾山と文学者たち

 高尾山山上の浄心門をくぐり、108段の階段を上ってきた参拝者達は、その参道の両側に続く文学碑にはたと足を止め、しばし見入る。     

 これらの碑に刻まれたひとつひとつの句や言葉を落ち着いた気持ちで読んでみるとまた高尾の違った魅力に気がつくことでしょう。

 高尾山は、昔から多くの歌人や俳人が訪れてはその自然の美しさに心を打たれ数多くの作品を残している。      
 これらの石碑は、薬王院にゆかりの者や、戦争での思いで、母や父を偲び詠ったものと様々だが、いずれも心に訴えかけてくるものがある。

 戦前より近年作られた比較的新しいものまで様々ですが、数も増えてきているようです。


水原秋桜子と高尾山

 水原秋桜子(みずはらしゅうおうし 明治25年10月~昭和56年7月1892~1981)は、正岡子規(1867-1902)が拓き、高浜虚子(1874-1959)が大きく開花させた近代俳句をさらに豊かにした次世代の代表的な俳人です。

 産婦人科病院を経営する医家に生まれた秋桜子は、東大医学部卒業後血清学を学び、宮内省侍医、昭和医専教授とエリート医師の道を歩みます。

 その傍ら中学時代から俳句に親しみ、20歳代で高浜虚子に入門、富安風生らと東大俳句会を始め虚子の指導を受ける。また窪田空穂に指示して短歌にも手を染めます。

 昭和初年には、秋桜子は阿波野青畝(あわのせいほ1899-1992)、山口誓子(やまぐちせいし1901-1994)、高野素十(たかのすじゅう1893-1976)とともに『ホトトギス』の4Sとよばれます。

 しかし、感動を調べで現す句法が虚子の客観写生と 対立。脱会。以後、「馬酔木」に依る。新興俳句の中心的人物として活躍。加藤楸邨、 石田波郷などを育てる。
 印象派の絵のような、爽やかで、明るい、絵画的な句を得意とする。東京空襲によって神田の病院、自邸を焼失した秋桜子は、昭和20年4月、八王子市中野に疎開。以後9年にわたってこの地に住むことになります。

 この 間、昭和22年1月15日には、高尾山麓高橋屋で「馬酔木」復刊記念会を開催。 ケーブル・リフトの山麓駅前広場そばに、高尾通信のグルメガイドでもおなじみのおいしい蕎麦屋「高橋屋」がありますが、ここ高橋家は、水原秋桜子が、昭和22年1月15日に「馬酔木」復刊記念会を開催した所としても有名です。

 彼は、その時の様子を、「雪の高尾」で次のように紹介しています。

「十時すぎの電車に乗るため駅にゆく。」(この駅は八王子駅のことです)
「浅川で降りる」 「ぬかるみをこね返して十二、三町歩くのが大変であったが、それでも風はなく、青空さえちらちら見えはじめた。会場は、高尾の登り口にある、高橋屋という立派な二階建の茶屋である。」
「まだ十人たらずの人が来ているだけなので、私は、一 人で山をすこし登って行つた。」
「杉から落ちつづく雪しずくがはげしいので、とても進むことができず、引き返そうとした」 「散会し た頃は、雪の高尾の頂に美しい新月が光っていた。」
「まだ消え残っている雪の 道を踏んで、話しながら浅川まで歩いた。」

 記念会を開いた喜びとともに当時の高尾山の情景が浮かんでくるようです 尚、秋桜子は、後述の中西悟堂と親しかった関係もあって高尾山には度々登っているようです。 薬王院本堂横手に弘法大師の御影像を安置した大師堂があるが、このお堂前には、昭和39年に建てられた水原秋桜子の句碑がある。  

仏法僧 巴と翔る 杉の鉾

 晩年の秋桜子は、「きれい寂」と呼ばれました。あくまでも自分の美意識にこだわり、年齢とともに枯れていく境地を深めていきました。最晩年までみずみずしい感性をたたえて、昭和56年7月17日、水原秋桜子は世を去ります。88歳でした。


若林牧春と高尾山

 1886(明治19)年~1974(昭和49)年
 北原白秋の最古参の弟子であり、「朱欒」などで活躍した後期浪漫派の歌人である。本名、岡部(旧姓・若林)軍治。南多摩郡町田村本町田(現・町田市本町田)生まれ。

 文学青年であった兄の影響で幼少より詩歌に親しみ、「文章世界」などに作品を投稿。その後、白秋編集の「朱欒(ザンボア)」に参加した。
 廃刊後は、同じ白秋門下の河野愼吾の『秦皮』創刊に協力した。多摩短歌会の結成に際してもと白秋から直接声がかかったといわれる。
 以後、歌誌「多磨」の主要歌人の一人として多磨歌風に随順した。後年は多摩歌話会、むらさき短歌会の指導に当たり多摩地域の歌壇の発展に貢献したのでした。
 著作には歌集『冬鶯集』があり、また都立町田高校をはじめ町田市内の多くの学校の校歌を手がけている。

 牧春の白秋に対する敬慕の念は非常に深く、1962年に同じ白秋門下の中村正爾、薮田義雄らの助言と協力を得て高尾山に白秋の歌碑を建立したほか、1971年6月には自宅庭に白秋の歌集『渓流唱』の一首の歌碑を建立したのでした。

 また、白秋も牧春を信頼していたようで、歌誌「多磨」4巻6号(1937年6月)の「多磨全日本大会について」の中で、「今年度の多磨全日本大会は、八月中旬、武州高尾の山上で催されることになつた。

 多磨では昨秋吟行をしたこともあり、八王子の若林牧春君を通じて、多磨がよく理解されてゐるので、安らかに親しめるのである」と述べている。

牧春は自宅で数十羽の小鳥を飼育する愛鳥家でもあったようで、鳥を題材とした歌を多く詠んだ。

惜春鳥しきりに啼きて山ふかみ かそけき路をい行きかねつも
仏法僧が頻りと囀る中、山はどんどん深くなっていく。
このか細い路を進んでいくのはどことなく躊躇われるのだけれども。



中西悟堂と高尾山

 山頂のビジターセンターの先、奥の茶店の右手前の一段下がった所、テーブルのある位置から1メートル程下に歌碑が見つかる。碑のそばに「中西悟堂先生歌碑」と筆太に彫られた高さ1メートル余りの標柱が建てられている。

 中西悟堂の名を耳にしたことのある人は、それほど多くはないでしょう。知っていたとしても、「野鳥の会」の創設者として、その名を記憶にとどめているくらいかもしれません。

 悟堂は、金沢市長町に生まれ、義父が僧侶だったため、16歳のとき東京都調布市深大寺で得度し天台宗の僧籍に入り悟堂と改名します。
 他方、若い頃から文学に目覚め、歌や詩を創作し、絵筆も取るようになります。若山牧水、高村光太郎、木村荘八など多くの文学者や画家たちと交流するようになり、同時にマルクシズム、アナーキズムの世界観を知るようになります。
 短歌には歌集「唱名」(大正5年)「安達太良」(昭和34年)「悟堂歌集」(昭和42年)、詩は詩集「東京市」(大正11年)「花巡礼」(大正13年)、その他にも随筆、訳詞などを執筆しています。

 30歳の時から3年間、突然、木食菜食生活に入ります。悟堂は林の中に机を置き、本を読み、雑草やメダカを食します。そして、物質主義の脅威への警告者だったタゴール、ガンジーに深く傾倒していきます。東洋の叡知こそが人類を幸福に導くと確信するようになります。

 昭和3年頃から野鳥と昆虫の生態を研究して「虫・鳥と生活する」(昭和7年)を出版し、9年日本野鳥の会を設立し機関誌「野鳥」を創刊、鳥類の分布を調べ、その愛護につくし、わが国野鳥研究の権威となります。
 野鳥に関する著述と活動によりエッセイスト・クラブ賞(昭和31年)、読売文学賞(昭和43年)を受けます。

 当時は「野鳥」という言葉も、バードウォッチングなどもちろんない頃のこと。盧溝橋事件の3年前のことでした。当時の「野鳥愛好家」の楽しみと言えば,野鳥を捕獲,飼育して啼かせたり姿を楽しんだり,あるいは,狩猟して食したり,と言うものが主流だったようです。

 また,「鳥学」という学問は既に成り立っていたのですが,学問として鳥の研究をする場合も,捕獲,標本作製から始まるのが普通でした。そこに,「野の鳥をありのままに,生きざまを見て,姿や声を愛でる」と言う野外観察を提唱したのが,中西悟堂だったのです。

 悟堂は、先にも述べたとおり僧籍を持ち,文人墨客との交流も深かったといいます。
狩猟による殺生を嫌い,野外での野鳥観察を提唱した中西は,いわゆる文化人達を集め,積極的に野鳥観察を紹介しました。実際、悟堂は、水原秋桜子や柳田国男ほか多くの文学者、文化人をこの高尾山にも案内しています。

 同行した文化人は,中西の観察力,識別力に舌を巻いたという。こうして支持者を集め,日本野鳥の会は,その歴史を歩み始めました。高尾山にも非常に興味を持ち、高尾山が野鳥の宝庫であることを世に知らしめた人でもあったわけです。


富士までに およぶ雲海ひらけつつ
 大見晴らしの 朝鳥のこえ

 この歌は、昭和43年、薬王院で泊り、翌早朝に高尾山山頂から見た雲海を詠んだものということです。歌碑の裏には以下のような説明が添えられています。

「日本野鳥の會々長中西悟堂先生はかねてより高尾山の自然を愛され永年に亙りしばしば高尾山に来遊されこの山の自然保護に協力下されました。先生は野鳥保護に就き我國最高の権威者でありますがまた勝れた歌人でもあられ先頃御来山の砌この山頂より遠く富士山を望む雲海の大景観に感動されて詠まれたお歌をいただきましたので石に刻んで永く後々に傳えたく歌碑を建立する次第であります。
         昭和四十九年春  明治の森高尾國定公園懇話会」

正岡子規と高尾山

 慶応3年9月~明治35年9月1867~1902新聞「日本」に、「獺祭書屋俳話」を連載、 俳句の革新に乗り出し、「俳諧大要」「俳人蕪村」で、俳句における写生の重要性を説く。
 さらに「歌よみに与ふる書」で、短歌の革新に着手、散文でも写生文を推奨し、親友の夏目漱石にも刺激を与えた。
晩年には、「墨汁一滴」「病床六尺」「仰臥漫 録」などスケールの大きい、自由闊達な随筆を書いた。

この子規が、明治25五12月7日に高尾を訪れ、薬王院を参詣している。この時のことを記した「高尾紀行」には、いくつか吟じている。

  「麦蒔やたばね あげたる桑の枝」

 「山の頂に上ればうしろは甲州の峻嶺峨々として聳え前は八百里の平原眼の届かぬ迄広がりたり。凩をぬけ出て山の小春かな」(高尾紀行)
  「高尾山を攀ぢ行けば都人に珍らしき山路の物凄き景色身にしみて面白く下闇にきらつく紅葉萎みて散りかゝりたるが中にまだ半ば青きもたのもし。木の間より見下す八王子の人家甍をならべて鱗の如し。」(高尾紀行)。

山上の飯縄権現にて
 「屋の棟に鳩並び居る小春かな」

 「御格子に切 髪かくる寒さかな」

 「木の葉やく寺の後ろや普請小屋」

 「茶店に憩ふ。婆樣の顏古茶碗の澁茶店前の枯尾花共に老いたり。榾(ほた)焚きそへてさし出す火桶また恐らくは百年以上のものならん。」

 「穗薄[ほすすき]に撫でへらされし火桶かな」


北原白秋と高尾山

 この参道はまさに文学碑通りだ。昭和37年11月、詩人でもあり歌人でもあった北原白秋の20回忌に高尾山で初めて建てられた歌碑が迎えてくれる。

 奥多摩の小河内ダム建設に反対していた白秋は、こよなく多摩を高尾を愛してくれた人の一人だ。時として山を散策し、また山房にこもっては瞑想したといわれている。

我が精進 こもる高尾は夏雲の
              下谷うずみ 波となづさふ    

 この歌は昭和11年白秋主宰の短歌誌「多摩」の全国大会が薬王院で行われたときの作である。仏舎利塔入口、設侍茶屋の前に大きな真鶴石に刻まれている。この碑面の文字は、白秋のペン書きを拡大し刻んだものだそうだ。

「高尾薬王院唱」(『橡つるばみ』より)

 昭和十二年八月十六日より三日間に亙り、我が多磨の第二回全日本大会を武州高尾 薬王院にて催す、余はその前日より先行その参集を待つ。

 薬王院前 十六日

 高尾やま蒼きは杉の群立むらだちの
   五百重いほへ が鉾の霧にぬれつつ

 茶亭にて 十七日

 小鳥たつ高山岸の昧爽あけぐれは 
   声多さわにしてすがしかりけり

 日あし未だ雲ゆ立ち来こね高尾嶺ねや
  五百重神杉木膚こはだ 明れり

 子らと在り杉の木のまを射し来たる
  朝日の光頭ずに感じつつ

 晴台へ吟行す、その道にて 十七日

 この山の榧かやの木群こむらの榧の果の
  ここだかなしきこれや我が子ら

 こぼれ日に落ちたる蝉の腹見れば
  粉のしろくうきて翅はねは乾からびぬ

 叢咲むらさきて粗あらき臭木くさぎの花ながら
  奥山谿おくやまだにの照りがしづけさ

 鳩笛や子らを連れゆく山路にぞ
  ほろこと吹きて我はありける

講堂にて 十七日 清浄心と書ける大額の下にて

 薬王院反かえしはげしき外との
  照りをみつめて痛し我らこもらふ

 日の光りはげしくしろき石の上へ
  息はずまする蝶ぞ闌た けゆく

下山の前夜 十八日

 月あかり後のちや来たりしくろぐろと
  杉の葉むらを見つつ我が寝つ

 笛ながら仏法僧の音ねは吹きて
  誰か梢の月に覚めゐる

 この夜聴く杉のしづくは我が子らも
  聴きつつぞあらむ枕しつつも
   
北原白秋 経歴   1885~1942〈明治18年~昭和17年)            明治・大正・昭和期の詩人・歌人。福岡県生まれ。
本名隆吉。


武蔵陵墓地と若山牧水

 高尾山のふもとにある武蔵陵墓地は、広大な敷地のなかに大正天皇の多摩陵、貞明皇后の多摩東陵、昭和天皇の武蔵野陵がある。
 いずれも上円下方墳。総門をくぐると参道は北山杉の並木と白い玉砂利が美しく、何とも神々しい気持ちに包まれてくる。

 ここを訪れた若山牧水は、以下の句を残した。

武蔵野 大野の奥の静もりに 
 しづまりたまふ 大御霊かしこ

御民われ 草履うちはき 笠かうぶり 
 もうでまいらむ 野の御陵に

 若山牧水、は国民的な歌人であり、生涯に約8,700首の短歌を詠み、全国各地に約280基の歌碑があるといいます。

安藤広重のスケッチと旅日記

 江戸時代の代表的な浮世絵師・安藤広重のスケッチと旅日記が書かれた「甲州日記写生帳」が、行方不明になって以来約80年ぶりに、平成18年7月に米国で再発見された。
 写生帳は、広重が1841年11月ごろ、江戸から甲斐(山梨県)を訪れた際に携えたもので、和紙を手帳のようにとじてあり、全38ページ。毛筆のスケッチ18点と、11月13~22日の日記が記されている。

 御岳昇仙峡や甲斐善光寺(いずれも甲府市)、釜無川や富士川などの風景、高尾山の鳥観図などが描かれたスケッチは巧みな構図で、太さの違う筆を駆使して遠近感を表現。山の稜線(りょうせん)や樹木の描き方に広重らしさが表れているという。

 この写生帳は、弟子の3代広重が亡くなった1894年以後に海外に流出したとされる。1925年、英国人研究者エドワード・ストレンジが著書の中で一部を紹介したが、その後、行方は分からないままだった。


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