高尾山麓 有名人の墓巡り高尾通信

高尾山の文学と伝説・民話

高尾山に抱かれて眠る人々~高尾山墓巡り

 高尾は、霊園の多いことでも有名ですね。
 お彼岸の時期のなると高尾山麓の町が紫煙にくすぶって見えます。
 道路には「お墓より住宅を」なんて書いた高尾山近辺の町内会のスローガンの看板などもあって、なかなか一風変わった景色です。
 
 また、霊山である高尾山を囲み、幾多の寺院が構えており、こういった霊園や寺院の墓所で静かに眠っている方々も古来より多くいらっしゃいます。

 このページでは、少し変わった視点から高尾山を眺めてみたいと思います。そうです、高尾山に抱かれて眠る方々の紹介です。

 しかしながら、もしお墓参りされたいのであれば、ほかの皆さんに迷惑をかけないように気を配ってください。騒いで静かに眠られている方々の耳障りになるようなことになってもいけません。故人の偉業を真摯に思い、静かに安らかに眠られることをお祈りしてください。
 また、霊園や寺院によっては、原則部外者の墓参りを許可していないところもありますので霊園事務所等に事前に確認していただくことをおすすめします。

金子光晴

 詩人、旅行家、エッセイストで今もなおファンは多い。
 金子光晴は、1895年12月25日、愛知県海東(海部)郡津島町に大鹿和吉の三男として生まれます。本名は安和。
 一家は代々日光川の船着場で酒屋と廻船問屋を営んでいたが、濃尾地震で持船のほとんどと酒蔵を失い破産します。
 名古屋に移り、安和を金子荘太郎の養子に出す。

 荘太郎は建設会社清水組の主任で、間もなく東京に転勤になり、安和も暁星中学をへて、早大英文科に入学。
 1915年、早大を中退し、東京美術学校日本画科にはいるが、すぐに退学。慶応義塾英文科予科にはいるが、翌年退学。
 1924年(大正13年) 1月、東京に戻る。小説家志望の森三千代と知り合い、恋愛関係になる。7月には三千代が妊娠のため東京女子高等師範(現:お茶の水女子大学)を退学。室生犀星の仲人により結婚する。
 1926年、フランスの最新の詩法をとりいれた『こがね虫』を新潮社より刊行。光晴を名乗る。
 1928年、プロレタリア文学全盛の風潮に孤立感を感じ、森三千代とともに渡欧。パリ、シンガポール、マレー半島をへて、帰国。この間の体験は『マレー蘭印紀行』にまとめる。
 その後、国家社会主義体制に対する反抗を秘めた『鮫』と「落下傘」を発表する。一般的に反骨の文化人として知られ、戦争中も反戦の立場を取り息子をわざと病気に近い状態にして兵役を免れさせ国家への不服従を貫く。

 敗戦後、山川浩「京都守護職始末 旧会津藩老臣の手記」(平凡社東洋文庫全2巻)を訳し、「日本人の悲劇」(新書判.レグルス文庫 第三文明社)、「絶望の精神史 体験した「明治百年」の悲惨と残酷」(初版 光文社カッパ・ブックス)を出す事で、明治維新以後の近代化路線へ批判を行っている。
 1952年、『人間の悲劇』で読売文学賞受賞。
 1957年、自伝『詩人』を刊行。

 「骸は適当に始末して、骨は小さな壺に入れて埋葬してください。」と遺言した彼の碑は、上川霊園の九十九折りの坂道を登った狭い台地の一隅にある。金子光晴/森三千代の二人はともに眠る。

上川霊園
八王子市上川町1520
JR中央線「八王子駅」・京王線「京王八王子駅」より
 ・「西東京バス上川霊園」行 終点にて下車、徒歩約5分
 ・「五日市」行・「今熊」行にて「上川霊園入口」下車、徒歩約5分  

菊田一夫

忘却とは忘れ去ることなり忘れ得ずして忘却を誓う心のかなしさよ   

1908~1973
 菊田一夫の本名は菊田数男。明治41年に横浜で生まれた。
 家庭が複雑で何度も養子に出され、幼児期は台湾で過ごした。
 小学校卒業直前には、大阪の薬種問屋へ丁稚奉公に出されたりもした。
 その後、上京し、萩原朔太郎やサトウ・ハチローとの出会いを経て、22歳のとき、古川ロッパのために喜劇を書く。

 東宝の嘱託となり、昭和18年に「花咲く港」を発表。これが劇作家としての本格的なデビユー作となった。
 昭和27年からは「君の名は」を執筆。このラジオドラマも「女湯が空になる」ほどの大ブームを巻き起こし、映画化もされた。
 この後も脚本家、演出家として活躍し、戦後演劇界の第一人者となった。

上川霊園
八王子市上川町1520  

寺山修司(てらやましゅうじ)

1935年青森県大三沢市に生まれる。 父・八郎は特効警察の刑事であった。
 昭和29年、早稲田大学教育学部国語国文学科に入学。「チェホフ祭」で第二回「短歌研究」新人賞受賞

 昭和42年演劇実験室「天井桟敷」を結成し、前衛的な芸術活動を繰り広げた。

 放送劇「山姥」や映画「書を捨てよ町へ出よう」「田園に死す」など優れた作品を残した。

 ブロンズの鉄柵に愛犬の像。墓石の本には何も書かれていないのは、何を意味するのでしょうか。

高乗寺 高尾霊園
八王子市初沢町
JR高尾駅より徒歩15分

藤沢周平(ふじさわしゅうへい)

 1927-1997 昭和後期-平成時代の小説家。
 本名は小菅留治。昭和2年12月26日山形県東田川郡黄金村大字高坂(現鶴岡市高坂)に生まれた。
 黄金村役場等で働きながら、鶴岡中学校夜間部を卒業し、山形師範学校に進む。卒業後、湯田川中学校で教職に就くが、2年後に集団検診で肺結核が見つかり、新学期から休職、東京で療養生活を送る。その後、東京の業界紙記者などにたずさわる。

 山形師範学校在学時には同人誌を発行し、病気療養中は、俳誌への投句、詩集の発行、戯曲の創作など文学に慣れ親しむ。
 昭和39年から仕事のかたわら小説誌に投稿をはじめ、昭和46年に「溟い海」でオール讀物新人賞、昭和48年に「暗殺の年輪」で直木賞を受賞し、執筆活動に専念する。

 昭和48年「暗殺の年輪」で直木賞。武家もの,市井ものを中心とした時代小説に下級武士や庶民の哀歓を端正な文体でえがき,人気作家となった。
 江戸下町に生きる人々を描いた時代小説、歴史上の史実や人物を題材とした歴史・伝記小説など数々の作品を発表するとともに、作家としての日々の暮らしや故郷・鶴岡についてのエッセイも残している。

 昭和60年から平成8年まで21期11年ほどの間、直木賞の選考委員をつとめる。61年「白き瓶」で吉川英治文学賞,平成2年「市塵」で芸術選奨。菊池寛賞、朝日賞、紫綬褒章等を受けた。平成9年1月26日死去。69歳。上杉鷹山をえがいた「漆の実のみのる国」が絶筆となった。

 作品はほかに「用心棒日月抄」「海鳴り」「蝉しぐれ」「本所しぐれ町物語」など。

 墓碑銘は、本名の「小菅留治」

八王子霊園
八王子市元八王子町  
JR高尾駅よりバス(霊園正門下車すぐ)

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上原げんと(うえはらげんと)

1914~1965
 東京霊園と八王子霊園は道路を挟んで真向かいにある。
昭和20~30年代に、明るく軽快で心がウキウキ楽しくなるようなヒット曲をたくさん世に送り出し,ラジオからの放送で、世の中に明るさと癒し(いやし)を与えてくれました。

 木造中学校卒業後、木造・五所川原・黒石でギター・マンドリンアンサンブルを組織し、自作の曲で発表会を開く。昭和11年、黒石より上京し、演歌師・サーカス・チンドン屋等をしながら放浪の全国一周の旅に出ます。その後、歌手の岡晴夫とコンビを組み、キングレコードから「国境の春」で作曲家としてデビューし、岡晴夫の全盛時代の作品の大半を作曲する。

 戦後、作詞家の石本美由紀と組み、コロムビアレコードで多くの歌手を育てる「上海の花売娘」や「東京の花売娘」「港町十三番地」などの数々の名曲を生んだ歌謡曲の作曲家です。
 お墓には、昭和21年に岡晴夫が歌って大ヒットした「東京の花売娘」の碑もある。

東京霊園
八王子市元八王子町  
JR高尾駅よりバス(霊園正門下車すぐ)

松本清張

1909~1992
 福岡県北九州市小倉生まれ。文壇作家の探偵小説勉強会「影の会」会員。
社会派推理小説の創始 。
 福岡県の現在の北九州市に生まれますが、家が貧しかったこともあり尋常高等小学校を卒業するとすぐに社会に出て、電気会社の給仕や印刷所の職人として働いていました。
その傍らで20歳になるまで芥川龍之介を中心に夏目漱石や森鴎外、菊池寛といった日本文学に親しみ、一時は習作にも手を染めていたといいます。

 1942年に嘱託として勤めていた朝日新聞西部本社広告部に正社員として登用されますが、翌年召集を受けて入隊。終戦を迎えると朝日新聞社に復職してポスターを製作するなど図案家として活躍します。

 終戦から5年後の1950年、41歳の時、「週刊朝日」の懸賞小説に応募した「西郷札」が入選したのを皮切りに、続いて木々高太郎の勧めで1952年に〈三田文学〉に執筆した「或る「小倉日記」伝」が第28回の芥川賞を受賞する。1956年には退社して作家して本格的に執筆活動に励むようになります。

『小説帝銀事件』 『現代官僚論』、『日本の黒い霧』、『深層海流』 『昭和史発掘』、『花氷』、『逃亡』 ほか推理小説、社会小説、時代・歴史小説、ノンフィクション、古代史、現代史など幅広い分野で活躍し、日本文壇の歴史に残る偉業を遂げました。

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富士見台霊園
八王子市大谷町1019-1  
JR八王子駅北口1番のりば(西東京バス)宇津木台行 八王子郵便局前下車

墓碑は石塁に囲まれた一段高い広い塋域の中に、畳1枚分程を横にした大きな黒御影の墓石には自筆で「松本清張」と横書きに刻まれている。

佐多稲子

 1904~1998
 本名,佐田イネ。 18歳の中学生と 15歳の女学生の恋愛の結果として生まれ,母の死後上京 (1915) ,父の失職などの事情で小学校5年からキャラメル工場に勤め,以後,中華そば屋,料亭,メリヤス工場などを転々とした。
 結婚に失敗し,女給として働くうち,中野重治,堀辰雄,窪川鶴次郎ら『驢馬』同人と知り合い,文学への目を開かれた。
 窪川と結婚後は宮本百合子さんらと日本プロレタリア作家同盟婦人委員会の委員となり、プロレタリア文学運動に参加し,『キャラメル工場から』 (1928) をはじめ,生活体験に基づく,きめの細かい清新な作品を相次いで発表。
 その後日本共産党への入党,窪川との離婚,党からの除名などを通じ,次第に作家として成長。
 その間、東京モスリン工場争議に取材した『幹部女工の涙』『祈祷』『小幹部』(六年)『何を為すべきか』(七年)『恐怖』(九年)の五部作を発表。いわゆる転向文学の時期には、戸塚署に検挙され、夫婦生活にも亀裂が生じ始めた。
 「婦人公論」に連載された長編『くれなゐ』(十一年)は当時のプロレタリア文学者としての苦しみと愛人ができた夫との間で家庭を守るべく戦いを自伝的に描いた。日本共産党の内部抗争に取材した『渓流』 (1963) のほか、『夏の栞』 (1983) は中野重治への美しい鎮魂歌で,毎日芸術賞を受賞した。

富士見台霊園
八王子市大谷町1019-1


石川淳


1899~1987
 東京都生まれ。東京外国語学校(現・東京外国語大学)フランス語科卒業後、慶應義塾大学でフランス語の教鞭をとる。
 1935年(昭和10年)の『佳人』発表から創作活動を再開。
 1937年、『普賢』で第4回芥川賞を受賞。その直後、1938年の『文学界』1月号に発表した「マルスの歌」が反軍国調だとして発禁処分を受け、編集責任者河上徹太郎とともに罰金刑に処せられたこともあって、戦時中は創作に制約を受け、森鴎外における史伝の意味を明らかにした『森鴎外』などの評論や、江戸文学の研究に没頭する。
 戦時中は江戸文学にも興味を持ち、戯作文学的な手法で戦争に抵抗した。
 戦後、『焼け跡のイエス』や『処女懐胎』などを上梓し、太宰治らとともに無頼派作家として人気を博する。 56年「紫苑物語」で芸術選奨受賞。
64年芸術院会員。1987年、88歳のときに『蛇の歌』連載中に没する。

上川霊園
八王子市上川町1520

武者小路実篤

 武者小路実篤は、1885年(明治18年)に生まれた。
  学習院を経て、東京大学社会学科中退。姓の武者小路は「むしゃのこうじ」と読むが、実篤自身は「むしゃこうじ」と名乗っていたようです。一般には「むしゃのこうじ」で普及しており、本人も誤りだと糺すことはなかったという。

 仲間からは「武者」(ムシャ)の愛称で呼ばれた。

 トルストイの影響を強く受け、明治四十三年、志賀直哉、 有島武郎らと雑誌「白樺」を創刊しました。
 自然主義文学が主流だった当時の文壇において、自我の肯定、個性の尊重を標榜して、同世代の若者達から強い支持を受け、続く大正時代の文学の新しい流れを作り出しました。
 白樺創刊同人の中でも、実篤はその著作でこうした姿勢を最も鮮明に主張し、時代のオピニオンリーダーとなりました。

 「白樺」は、1910(明治43)年4月に創刊して、1923(大正12)年8月まで、160号を刊行しましたが、関東大震災のため幕を閉じました。
 
 その後、トルストイズムを脱し、自己の充実、自我の拡大を率直かつ大胆に主張した。 理想的な調和社会、階級闘争の無い世界という理想郷の実現を目指して、1918年(大正7年)に宮崎県児湯郡木城村に「新しき村」を建設した。しかし同村はダム建設により大半が水没することになったため、1939年(昭和14年)には埼玉県入間郡毛呂山町に新たに「新しき村」を建設した。中年以降は東洋的楽天思想に安定を求め、その挫折を知らぬ明るさは多くの共感を呼んだ。

 武者小路実篤は、水のある所に住みたいという子供の頃からの願いどおり、昭和30年、70歳の時に調布市仙川に移り住んだ。1976年(昭和51年)4月9日、東京都狛江市にある慈恵医科大学付属病院で尿毒症により死去。満90歳だった。

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中央霊園
八王子市戸吹町185
都内でも数少ない全面平坦な敷地を持つ中央霊園。
JR八王子駅(北口)・京王八王子駅より西東京バスで「戸吹行」に乗り、「戸吹」下車、徒歩2分
愛妻の安子とともに眠る夫婦墓。

参考資料
 武者小路記念館展示資料
 新しき村HP

山田風太郎

 兵庫県養父市関宮(当時の養父郡関宮村)に生まれた。
 本名は山田誠也。父母共に代々続いた医者の家系で、父は関宮村で山田医院を開いていた。 東京医科大学を卒業したものの,在学中から小説を書きはじめ,1947年,推理小説専門誌『宝石』の第1回懸賞小説に『達磨峠の事件』で入選を果し作家デビュー。
 以後,個性的な推理小説を次々に発表,49年には『眼中の悪魔』『虚像淫楽』で探偵作家クラブ賞を受賞した。
 58年から雑誌『面白倶楽部』に1年間連載した『甲賀忍法帖』がヒットし,以後『くノ一忍法帖』『江戸忍法帖』など一連の忍法小説で一大ブームを巻起した。着想の妙と奇抜なプロットの展開によって伝奇小説の第一人者となる。
 戒名は「風々院風々風々居士」。墓碑銘は「風ノ墓」

上川霊園
八王子市上川町1520

松原庵星布(まつばらあんせいふ)

 八王子の女性俳人榎本(松原庵)星布(せいふ)は、1793年(寛政五)に『星布尼句集』を刊行して以後、亡くなる1814年(文化11)まで10冊近い句集を著しました。

 関戸村延命寺の学僧春登(しゅんと)上人も、1817年(文化14)に『仮字音便提要』を著し、その後も言語・音声学、歌学論の研究書を発行します。
 また、八王子市新町の永福稲荷神社には、庚申塚と、松原庵星布(まつばらあんせいふ)が建てた芭蕉句碑があります。

大義寺
八王子市元横山町2丁目 


塩野適斎(しおのてきさい)

 千人同心といえば武道ばかりでもなかった。
極楽寺に墓のある塩野適斎は千人同心組頭であったが、文武両道に優れた達人として評判だった。安永4年(1775)千人同心組頭河西知礼の子として生まれ、同じく組頭の塩野家の養子となった。
 8歳にして養父に代わって組頭となり、授業の徒は1000人に及んだといわれる。
 文政期から天保期にかけてまとめた桑(そう)都(と)(江戸時代には八王子を桑の都、桑都と呼んだ)は、八王子地方の歴史研究の第一級資料として評価は高いが、残念ながら出版には至りませんでした。
 また、幕命によって同僚とともに『新編武蔵風土記稿』の編纂に従事し、十数年かけて完成させている。弘化4年(1847)73歳で没した。

 極楽寺は、浅川の流れにほど近いところに建つ名刹である。『新編武蔵風土記稿』(以下、『風土記稿』と略)によれば、永正元(1504)年に創建されたと伝えている。塩野適斎の墓は墓地入口から正面に見える玉田院墓の斜め右前に西向きに建っています。 しかし墓自体は高さ30cm程と小さく、墓よりも”ほこら”を探した方が分かりやすいようです。

極楽寺
東京都八王子市大横町7-1

北条氏照

 氏照の墓は小田原駅前にあるがここは氏照に仕えた中山勘解由家範の孫で水戸藩家老の信治 が氏照の100回忌供養のために建てられたものだ。

 向かって右の墓は家臣中山家範の墓、左は家範の孫で後の水戸藩家老となった中山備前守信吉の墓石。

骨の入った墓は、切腹した小田原にあるためこちらは慰霊塔の位置づけ。この高台はもとの宗関寺観音堂跡の地で、氏照墓の奥にも苔むした石塔墓石が多数たちならんでおり、付近は竹林杉木立にかこまれた静寂な趣をかもしだしている。

宗徳寺
八王子滝山町  


松本斗機蔵

 八王子同心は武蔵国の八王子(八王子市)にあって、甲州街道の守備や日光の東照宮の警備にあたっていた。甲斐の武田氏の残党で、居住地は八王子を中心に西多摩、北多摩から遠くは埼玉県入間郡にわたっている。

 松本斗機蔵は、三十表一人扶持の小禄同心に過ぎなかったが、若くして湯島の昌平黌に学び博覧強記を賞されたという。

 先学と同志に恵まれ、渡辺華山・高野長英・伊豆韮山代官江川英龍などの蘭学者と親交があり、地理学者高野景保とも通じ、水戸藩の藤田東湖とも歓談している。
 天保九年(1838)末、前年の外国船接近に対する幕府の一貫性を欠いた対外政策に対し、松本斗機蔵は幕府に意見書を差し出した。
 鎖国政策が現状に不得策であるか、海防の充実と外国船打払令の不可なること、穏便な交渉の必要性を強調した。
 同じ年、華山・長英も同様な論旨をもって幕府を批判した。天保十ニ年、その見識を買われて浦賀奉行の役職に転出することになったが、病で任地に就かず、同年没した。

宗格寺
八王子市千人町 

鈴木正三(石原道人)

 高尾山にほど近く多摩御陵総門手前右手の小丘は「庵の山」と呼ばれている。
ここは近世日本における批判精神の発祥の地ともいうべき偉大かつ異色の禅僧石平道人の遺跡です。
 石平道人は本名を鈴木正三(しょうさん:1579~1655)といい徳川家の旗本で歴戦の勇士であったが、元和二年意を決して42歳で仏界に身を投じ草庵「堅叔庵」(けんしゅくあん)をかまえた。

 参道北側の長泉寺には正三の座像があり、その墓も寺の墓地にある。
 宗派宗門にとらわれることなく身分階層を問わず万民のために独特の「仁王不動禅」を力説し「仁王像や不動像のように厳しい心、激しい心を持って坐禅をし、その気持ちを一日中持ち続けよ」といい、念仏については「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と、息を引ききり引ききり、強く念仏せよ」とか、「眼を見すえ、拳を握り、きっと胸を張り出して、ナマイダブ、ナマイダブと申せ」といっている。「果たし眼念仏」といわれるものである。

 禅風改革に一石を投じ「仏法と渡世の術は同じで、各々の職分の中に仏法を見出せ」と説き、「一鍬一鍬に、南無阿弥陀仏を唱えて耕作すれば、必ず仏果に至る」といっている。
 正三の職業倫理といわれるもので、正三の思想の一面として、重要視されている。

 日本人がなぜ働くことは良いことだと考えるようになったのかということについては、江戸前期の禅僧、鈴木正三(すずき・しょうさん)の思想がその源流にあるのではないかと考える人もいます。
 正三の思想の中には、日本の近代的精神の芽生えがあるとする人も多い。

 そして、その思想は、近世仏教界革新のさきがけといわれるほど独自性をもつもので独自の考えを書物にまとめた。「盲安杖」「破切支丹」をはじめとして、「因果物語」「万民徳用」「草分」「二人比丘尼」「念仏草紙」などがある。

 正三はこの考えを広く民衆に広めるため,各地の寺の整備にも努めた。正三の考えは,日本人の勤勉さを説明するものの一つとされる。 

 正三の没後、弟子の恵中がまとめた「反故集」「驢鞍橋」も一連のものである。中でも「二人比丘尼」は、文が洗練されていて、掛かりを用い、和歌を挟み、七五調の韻文にし、謡曲調も用い、問答体も交えて筋を運ぶというもので、仮名草子本の代表作といわれるほどである。

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鈴木正三 武将から禅僧へ/童門冬二


長泉寺
八王子長房町1258 JR中央線「西八王子駅」北口から京王バス「長房団地」行きで、バス停「長房団地」下車徒歩5分。または、京王バス「城山手」行きで、バス停「長房団地ふれあい館」下車徒歩約5分。

横倉甚五郎

 天保5年(1834)八王子堀の内村生まれ。土方歳三とともに剱の道でも天然理心流の同門。元治元年(1865年)、局長近藤勇による隊士募集に応じて新選組に入隊する。新選組隊士伍長、六番隊武田観柳斎に配属。

 慶応3年(1867年)11月の油小路の変では大石鍬次郎らと共に奮闘した。12月には近藤狙撃事件(墨染の難)の際に警護にあたっていたが、みすみす近藤を負傷させてしまう。
 その結果、新選組は鳥羽・伏見の戦いにおいて十全に力を発揮する事無く敗退。護衛に加わっていた横倉はこの敗戦を酷く悔しがっていたと云う。

 慶応4年(1868年)1月に戊辰戦争が勃発すると、鳥羽伏見の戦い、甲州勝沼の戦い、会津戦争を経て仙台で榎本武揚艦隊と合流し、蝦夷地へ渡航した。
 明治2年(1869年)5月15日に弁天台場が降伏し、横倉は同所にて謹慎を言い渡されていたが、元京都見廻組今井信郎などと共に坂本龍馬、伊東甲子太郎暗殺の嫌疑をかけられ、同年11月9日、東京の糾問所に送検されて取り調べを受けた。
 明治3年8月15日、獄中死。享年37。その骸はいったん小塚原に埋葬されたが、後に八王子市堀之内の横倉家の墓地に改葬された。

辞世の句

「義のために つくせしことも 水の泡
      打ちよす波に 消えて流るる」

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大法寺
八王子市鑓水1356 
JR・京王「橋本駅」下車北口4番乗り場より八王子駅北口行バスで鑓水バス停下車徒歩1分

長田作左衛門


 八王子城が落城すると、攻撃方の総指揮官前田利家の家臣の長連竜によって戻された町民たちは、戦場跡の八王子に対し、新しく宿場町に作り変えをされはじめられました。
 前田利家は半月後には元北条家臣の長田作左衛門を責任者に選出して、八王子の移転を命じた。
 作左衛門が見立てた新生八王子の中心地とは、かつて武蔵七党の横山党小野氏が根拠地とした横山町であったという。

 文禄元年(1592)になると、徳川家から大久保長安が駿府から八王子惣奉行として代官を引率して赴任、八王子の開発を引き継いだ。作左衛門は、この後、町人となり、八王子の草分け総名主となった。
 この墓碑は嘉永5年(1852)川辺勘十六らによって建立されたものである。

 尚、極楽寺は、滝山城下に創建されたという。北条氏照が八王子城を築城するとその城下へ移り、落城後また八王子中心が横山町へ宿越えして、極楽寺も現在の地へと三転した。戦災にも合わず、現在でも市街地の中で六千坪の寺域を有するという。
境内には、武田信玄の孫、玉田院小督の墓もあり、長田作左衛門の墓とともに東京都指定旧跡となっています。

極楽寺
八王子市大横町7-1

玉田院

  玉田院は、俗名を小督といい、天正10年(1582)武田氏滅亡の折、高遠城で討死した仁科五郎盛信の息女です。松姫尼(武田信玄 六女)の姪に当る。

 小督は松姫尼と難を逃れて八王子に来住。この地で養育されたが、やがて仏道に帰依し、八王子奉行大久保長安に請い、元横山村大義寺の西隣りの地に一寺を建立、これを玉田院と称し、ここに住して「玉田禅尼」と称せられた。
 慶長13年7月29日病を得て29歳の若さで没した。法号は「玉田院光誉睿室貞舜尼」。

 最初墓は玉田院跡にあったが、正徳5(1715)年7月、盛信の曾孫仁科資真が極楽寺に改葬したものである。

  参考資料:東京都教育委員会の解説板

極楽寺
大横町7-1 極楽寺内
JR中央線「八王子駅」北口から西東京バス「みつい台」行き、「みつい台経由戸吹」行き、「創価大学栄光門」行き、「左入経由純心女子学園」行き、「左入経由杏林大学」行きで、バス停「サイエンスドーム」下車徒歩約5分。

大正天皇・貞明皇后・昭和天皇

 有名人なんて書くとおおそれおおいのですが、高尾山のお墓を語るときには、やはり触れるべきでしょう。以下にご紹介します。

 高尾山のふもとにある武蔵陵墓地は、広大な敷地のなかに大正天皇の多摩陵、貞明皇后の多摩東陵、昭和天皇の武蔵野陵がある。
いずれも上円下方墳。総門をくぐると参道は北山杉の並木と白い玉砂利が美しく、何とも神々しい気持ちに包まれてくる。 

武蔵野 大野の奥の静もりに 
  しづまりたまふ 大御霊かしこ 
御民われ 草履うちはき 笠かうぶり 
  もうでまいらむ 野の御陵に
             若山 牧水  

 歴代天皇の陵墓のうち初めて東京近郊に定められたのが大正15年12月25日に崩御された大正天皇の御陵墓。
この年公布の皇室陵墓令には、将来、陵墓を営建すべき地域を「東京府及びこれに隣接する県に在る御料地内」としている。

 これに基づき翌年1月3日の宮内省告示をもって「武蔵陵墓地」の名称と当時の南多摩郡横山村、浅川村、元八王子村所在御料林地内の陵墓地が決定された。
 大正天皇陵は横山村大字長房字龍ケ谷戸にあたる。高尾駅前から甲州街道沿いの約4キロにわたるいちょう並木は、昭和2年2月に多摩御陵が開設されたとき記念に植樹されたもの。
 素木の鳥居を前に大正天皇の多摩御陵これに隣接して貞明皇后の多摩東陵がある。両御陵とも石積みの上円下方墳で、墓域は約2700平方メートル。また東隣には多摩御陵と同じ上円下方墳の昭和天皇御陵武蔵野陵(むさしののみささぎ)がある。

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